慶喜、条約勅許を得る(「青天を衝け」98)
「青天を衝け」第19回では、条約勅許問題が大きく取り上げられていました。そこで、今日は、条約勅許問題について書いていきます。条約勅許問題が最も詳しく書かれているのは「徳川慶喜公伝」ですので、それに基づいて書いてみます。
安政5年(1858)に締結された安政五か国条約(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5ヵ国との間に締結した修好通商条約)は、幕府の独断で締結したもので、勅許は得られていませんでした。これは、「青天を衝け」でイギリス公使のパークスが語っていた通りです。パークスは慶応元年閏5月に着任早々に、米仏蘭に呼び掛けて、条約の天皇による承認と、兵庫港の開港などを求めて、9月13日に横浜を出港し、9月16日に9隻の艦隊が兵庫沖に到着しました。そううち2隻は大坂湾内の天保山沖まで進み、兵庫港と条約勅許を要求し、7日以内に回答するよう求めました。
四か国艦隊が兵庫沖に投錨した時に、将軍家茂は、長州征討の勅諚を受けるため上京中でしたが、勅諚を受け取ると直ちに大坂城に戻りました。そして、9月23日に老中の白河藩主阿部正外(まさと)が兵庫に向い、四か国公使と会見し、勅許と兵庫開港の困難な事を縷々説明しました。しかし、パークス達は全く妥協せず、勅許が得られない場合には、京都に行き天皇と直接交渉すると主張しましました。
この四か国大使たちの強硬な主張を受けて、阿部正外は大坂城に戻り家茂を含め協議を重ねました。その席で阿部正外は、回答期限も迫っているので兵庫開港を承諾するしかないと主張し、同じ老中の松前藩主松前崇広も賛意をを示し、二人の意見に沿って幕府として兵庫開港を決定しました。
一方、京都にいた慶喜は、家茂から大坂に下るように要請され、驚いて急いで大坂に向かい9月26日暁に大坂に到着し、直ちに大坂城に登城し、城内で開かれた会議の席で、公使たちを説得し回答期限を延長してもらい、その間に将軍が上洛して勅許を仰ぐ必要を強く主張しました。その結果、幕府の決定が覆され、若年寄の立花種恭が兵庫に急遽派遣され、パークスに回答の10日間延期を承諾させました。
慶喜は、大坂城での会議の後、急いで京都に戻り、将軍の上洛を待っていましたが、大坂では、将軍の上洛に異論・慎重論が多く、家茂の上洛はありませんでした。そこで、慶喜は、急ぎ上洛するよう改めて要請しました。
慶喜が家茂の上洛を切望している間、京都では、幕府独断による兵庫開港の決定が強い反発を招き、兵庫開港を主張した老中阿部正外と松前崇広(たかひろ)の官位剥奪と国元での謹慎が、10月1日に朝廷から命じられました。このことは、朝廷により、現職の老中二人が罷免されるという前代未聞のことでした。
そのため、この処置に強く反発した幕閣は、将軍家茂が辞職し一橋慶喜に将軍職を譲り江戸に帰るとする決定を行ない、尾張藩主徳川茂徳(もちなが)が その旨をしたためた上書を携えて京都に向かいました。
一方、江戸への帰府を決定した家茂は、早速実行に移し、10月3日正午に大坂を出発し、翌日暁に伏見に到着しました。将軍辞職の報を聞き驚いた慶喜は、松平容保、松平定敬とともに伏見に向かい家茂に拝謁し、強く説得しまし。この時、老中たちは「神戸開港の勅許を得られず、外国の圧迫に抗することもできないため、慶喜公に将軍職を譲るよう進言した」ということであったため、慶喜は「然らば今一度死力を尽くして勅許を奉請し奉るべし。将軍家には東帰を止め給ひて、二条城に入らせらるべし」(「徳川慶喜公伝」より)と申し上げた結果、家茂は江戸に戻ることを中止し、4日暮れ六つ時に京都二条城に入りました。
そして、慶喜は、その日のうちに、慶喜は条約勅許を朝廷に求めました。そこで、急遽、10月4日、関白二条斉敬以下が参列して朝議が開かれました。
この朝議の席では、慶喜は、速やかな条約勅許を要請しましたが、薩摩藩よりの内大臣近衛忠房には異論があり、二条関白や賀陽宮も大いに苦しみました。
その結果、在京中の諸藩士の意見を聞いたうえで対処することになり、諸藩士が朝廷に召されて意見の聴取が行われました。諸藩の大半が条約許容論であったものの薩摩藩は外国船の退去を強く主張したため、朝議が紛糾し結着がつきませんでした。そうした時、二条関白たちが退散しようとする気配をみせました。これを見た慶喜は、「このような国家の重大事を前に退散するなんてことがありますか。不肖ながら私は多少に人数を持っています。このままではすますわけにはいきません。」(「徳川慶喜公伝」より)と脅しました。
そのため、二条関白たちは席に戻りました。そこで、慶喜は、次のように啖呵をきりました。
「これまで申し上げてもお許しないのであれば、私は責任をとって切腹するつもりです。私の命はもとより惜しむわけではない。しかし、私が命を絶てば、家臣たちがあなた方にどのようなことを仕出すかわかりませんよ。その覚悟をもって存分に検討してください」(「徳川慶喜公伝」より)と言って席を立ちました。
そうなるとさすがに二条関白も悟ったことがあったようで、別室で相談すると言い相談をしましたが、よい考えも出ず、困り果てました。
こうした状況をみて、孝明天皇が自ら「一橋慶喜ら願っている通り、条約を許可する」という勅書を二条関白・賀陽宮に下しました。
こうして、10月5日ようやく条約の勅許が得られることになりました。しかし、兵庫開港は天皇によって認められず、この問題は懸案事項として先送りされることになりました。
「青天を衝け」では、おおむね、「徳川慶喜公伝」の記述に沿った描き方だったと思います。特に慶喜が公卿たちに対して強い口調で迫る姿は史実通りといってよいと思います。