栄一、長州征伐に出陣(「青天を衝け」102)
前回の「栄一と土方歳三」は、栄一が幕臣になってからの話ですが、今日は少し時間を遡って、栄一が長州に出陣することになった時の話を書きたいと思います。
栄一は、長州征伐へのお供を命じられた際には、死ぬ覚悟を固め、血洗島に残された千代に、手紙とともに形見の懐剣を送っています。その懐剣は現在も残されているそうです。
下写真は、渋沢史料館に展示されていた懐剣の写真です。

栄一は、「雨夜譚」には、長州征伐の出陣したことについて次のように書いています。
「自分も長州征伐の御供を命ぜられて、勘定組頭から御使番(おつかいばん)格に栄転した。前にも述べた通り、自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは一図に一橋家の会計整理に力を尽して種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公(慶喜のこと)御出馬という場合になっては、腰抜け武士となって人後に落ちることは好まぬ気質だから、強いて従軍を願って御馬前で一命を棄てる覚悟でありました。」
その時に栄一が血洗島にいる千代に送った手紙が残されていて、次のように書かれています。現代文風に書き換えて示します。
「一筆示し申あけます。それ以降手紙を書くことがなく、そなたからも手紙がないが、血洗島の人々もお変わりなくお暮らしのことと喜んでいます。私も変わりなく仕事を勤めていますのでご心配ないようにお願いします。以前から度々言っていたそなたを京都によぶよう進めてきてもうその時節にもなったので、日々生活をしながら呼ぶのを待っていたところ、思いがけず、今回長州へ御出陣の御供を仰せつけられ、これから出陣するので、そなたを京都に呼ぶという事も残念ながらしばらくはあきらめなければならない。
しかし、いくさは武士の常、さほど心配することでなく、やがて吉報を知らせることができるだろうから、その日を数えて待っていてください。永い別れになるので、今度こそ会った上で、これまでの多くの苦労を話したいが、また二百里もの距離がある西国へ行くことになり、仕方がありません。御両親への孝行をおこたりないよう頼みます。娘の歌子も日ましに大きくなっているとのこと、女なからもたのもしいことで、そのうち会える時もあるだろうと待ちわびています。いろいろと話したいことが多くありますが、まことにせわしいので、思う事を十分に行くこともできません。ここで筆を留めます。
八月今日 とく太夫
お千代殿へ
末筆ながら手計のお母さんにもよろしく頼みます。
また別途送った一包はそなたへの形見のつもりの懐剣であるので大切にしてください。されども、私の消息がはっきりしないうちに、不慮の出来心を起さないようにくれぐれもよろしくお願いします。万が一私が亡き者にでもなれば、その後はしっかりと思案してください。いずれにしてもめでたく戦に勝って帰ってくるつもりなので、その節にはいろいろと話をします。
この手紙を大事にしてください。また手計のお母さんにはお目にかけて、もしもの節は御相談されるようよろしくお願いします。手計のお兄様へは別途手紙を差し上げないので、こちらもよろしく頼みます。
いろいろ書きたいことはありますが残念に思いながら書かずに残しておきます。」
この手紙に書いてある通り、栄一はもう死ぬ覚悟をして手紙を書いていますし、形見としての懐剣を送っています。
これを見た血洗島の人々は当然びっくりしたことだと思います。
「青天を衝け」では、市郎右衛門が「名誉じゃぁないか」と言うのに対して母親えいは「こんなになるのだと京にやるんじゃぁなかった」と悔いていますし、その脇で、千代が涙を流していましたが、当然だと思います。
ちなみに、栄一からの手紙を受け取った千代がどうだったかは、穂積歌子の「はゝその落葉」で、栄一からの手紙の内容を書いた後、次のように書いています。
「この御ふみと短刀とは、わらは申しうけて今もなお秘め置きぬ。打見るたびにその時の母君の御心の中、押しはかられ参らせて。悲しさ云わんかたもなし。」
「青天を衝け」のシーンは、穂積歌子が書いている通りだったと思います。
さて、栄一が長州征伐の際に千代に形見として懐剣を送る程の覚悟を固めていたのは本当のことのようです。
明治になって明治43年10月18日に開催された「昔夢会」での栄一の語った話が「昔夢会筆記」に記録されています。
「私はもと勘定組頭であったのを、御使番になって戦争のお供を命ぜられた。長州へ行ったら、どうしても向こうが強い、こっちが弱いのだから死ぬに限っている。死ぬ覚悟をして国に贈った手紙がある。不思議のものだ。自分が長州征伐のお供をすることになって、討死をするに相違ないがと言って家に出しました。」
また、その当時、一橋家の藩士は、ほとんど死ぬ覚悟だったようです。
同じ日の昔夢会で次のような猪飼勝三郎との会話が「昔夢会筆記」に書かれています。
渋沢「(前略)御名代としえお出かけなさる時には、ほとんどもう死を決した御覚悟のように皆申しておりました。御床几廻(おしょうぎまわり)の人々なども今度行ったらもう一人も生きては還らぬというような意気込みであったように覚えておりますが、猪飼さんなどはお覚えがありましょう。」
猪飼「私も覚えております。何でも御床几廻は皆討死の覚悟でございました。」
ここまで覚悟を決めて出陣しようとしていた長州征伐ですが、出陣直前になって、大阪城に滞在していた家茂が急死したため、慶喜の出陣が急遽中止となって、栄一たちの出陣もなくなりました。

