栄一、パリへ向かう(「青天を衝け」110)
「青天を衝け」も第22回からパリ編のスタートです。コロナ禍でパリでのロケは不可能な中で、どう描くか注目していましたが、見事な描写だったと思いました。今日は、栄一たちのパリまでの旅行について書いてみます。パリでの出来事は次回以降書いていきます。
渋沢栄一は、いよいよパリに向けて出発しました。出発したのは、慶応3年(1867)1月11日、パリに着いたのは、3月7日でした。約2ヶ月かかったことになります。一行はフランス船アルフェー号で横浜を出発し、上海を経由し香港でフランス船アンペラトリス号に乗り換え、サイゴン、シンガポール、セイロン島、アデンなどを経由し2月21日スエズに到着しました。ここまでは船でしたが、スエズ運河ができていないため、汽車に乗り換えアレキサンドリアまで鉄道で向いました。アレキサンドリアからはまた船に乗り地中海を渡り2月29日マルセイユに到着しマルセイユに1週間ほど滞在したあと汽車に乗り3月7日パリに入りました。
栄一は、元々は攘夷主義者でしたが、パリに向かう時には、すっかり攘夷主義を捨てました。また攘夷主義を捨てただけでなく、外国の事物をしっかり学ぶべきだとまで考えるようになっていました。
そのため、船の中では、フランス語を学ぼうとまで考えていました。結局は、途中でやめてしまいましたが、その意気込みはすごく前向きだと思います。栄一は、「雨夜譚」で次のように語っています。
「さていよいよ外国へ往くと決した以上は、これまで攘夷論を主張して、外国はすべて夷狄禽獣であると軽蔑して居たが、この時には早く外国の言語を覚え、外国書物が読めるようにならなくちゃいけないと思った。その上自分も京都で歩兵組立の事を思い立て、その事に関係してからは、兵制とか医学とか、または船舶器械とかいうことは、到底外国には叶わぬという考えが起って、何でも彼方の好い処を取りたいという念慮が生じて居ったから、船中から専心に仏語の稽古をはじめて、彼の文法書などの教授を受けたけれども、元来船には弱し、かつ船中では規則立った稽古も出来ぬから、自然と怠って、詩作などをして日を送ることとなりました。」
「青天を衝け」の冒頭シーンで栄一が船に弱いと描かれていましたが、船酔いもあって、フランス語は、あまり成果を挙げませんでした。しかし、初めて見聞・経験する物についての興味は旺盛でした。それがわかるものが、食べものに対する興味です。
「雨夜譚」では、食べものについての感想は書いてありませんが、栄一が書いていた「航西日記」には、詳しく書かれています。「青天を衝け」でパンを食べるシーンがありましたが、「航西日記」に次のように書かれています。下写真は渋沢史料館に展示されていた「航西日記」です。

「郵船中にて諸賄方の取扱極めて鄭重なり。凡そ毎朝七時頃乗組の旅客、盥漱(かんそう:手を洗い、口をすすぐこと)の済しころ、ターブル(テーブルのこと)にて茶を呑(のま)しむ。茶中必(ず)雪糖(砂糖のこと)を和しパン菓子を出す。又豕(いのこ:豚のこと)の塩漬などを出す。ブール(バター)という牛の乳のか凝(たまたり)たるをパンへぬりて、食せしむ。味甚(はなはだ)美なり」
現代風に書き換えると「ほぼ毎朝七時頃、洗面が終わった頃にテーブルで紅茶を呑む。その紅茶には砂糖を加えて呑む。そして、パンが出る。またハムも出す。パンにはバターをぬって食べるが非常においしい。」といったところでしょうか。
栄一は、初めて食したであろうパン・バター・紅茶・ハムをおいしく食べたようです。
また、朝食について書いたあと、食後のコヒーについても書いています。「同十時頃にいたり。朝餐(ちようさん:朝食)を食せしむ。器械すべて陶皿(やきものさら)へ銀匙(ぎんひ:スプーン)、ならびに銀鉾(ぎんほこ:フォーク)、庖丁等(ほうちょう:ナイフ)を添へ。《中略》。パンは一食に二三片。適宜に任かす。食後カッフへエーという豆を煎じたる湯を出す。砂糖牛乳を和して之を飲む。頗(すこぶ)る胸中を爽(さわやか)にす。」
初めてコヒーをのんだ場合には苦いというのが多くの感想でしょうが、その苦さをまったく気にせず胸がさわやかになるという感想ですので栄一は、新しいものをどんどん吸収するという気質だったのでしょう。
また、「青天を衝け」では、スエズ運河の掘削工事は、映像はなくて栄一の感想を述べるシーンだけでしたが、スエズ運河の掘削工事を見ての感想も記しています。
「この大工事は1865年(慶応元年)頃より起工したそうで、四五年後には全く竣成(しゅんせい:竣工)をみる予定であると聞き及んだが、私はその工事の大規模である事よりも、むしろ泰西人(たいせいじん:西洋人)が独り一身一為のためのみならず、国家を超越して、進んでかくのごとき世界全人類の利益を計るため、かくのごとき規模の遠大にして目途の宏壮なる大計画を実行する点に感服せざるを得なかった」
工事の大規模なことに驚くよりも、個人のためでなく全世界の人類の利益を図るために工事が行なわれていることに感心するあたり、のちの栄一を彷彿させるものがあります。なお、この文章自体は「青淵回顧録」から引用していますが、「航西日記」には同じ趣旨の内容が書かれていますので、明治以降の回想でなく、スエズ運河の工事を見た時点でそう感じたとみてよいと思います。
ところで、徳川昭武に従ってパリに向かった人数は28人だと栄一は「雨夜譚」に書いています。そこで、徳川昭武に従った随員を紹介しておきます。下写真が徳川昭武一行の全体写真です。渋沢史料館に展示されていたものです。※赤字が「青天を衝け」に登場する人たちです。

①向山隼人正(一履) 勘定奉行格外国奉行、初代駐仏大使
②山高石見守(信離) 昭武御傅役、留学生取締役、作事奉行格小姓頭取
➂保科俊太郎 通訳、留学生取締役、歩兵頭並
④高松凌雲 奥詰医師
⑤木村宗三 大番格砲兵差図役頭取勤方
⑥田辺太一 外国奉行支配組頭・公使館書記官
⑦箕作貞一郎(麟祥) 儒者次席翻訳御用頭取
⑧山内文次郎 小十人格大砲差図役勤方
⑨日々野清作 外国奉行支配調役
⑩杉浦愛蔵(譲)外国奉行支配調役
⑫生島孫太郎 外国奉行支配調役並出役
⑬山内六三郎 (堤雲) 外国奉行支配通弁御用
⑭渋沢篤太夫 (栄一) 勘定格陸軍付調役
(2)昭武の随員(水戸藩士)
①菊池平八郎 御雇民部大輔殿小姓頭取
②井坂泉太郎 御雇民部大輔殿小姓頭取
➂加治権三郎 御雇中奥番
④三輪端蔵 御雇中奥番
⑤服部潤次郎 御雇中奥番
⑥大井六郎左衛門 御雇中奥番
⑦皆川源吾 御雇中奥番
以上、合計20人、ほかに従者や小者が5人随行したので、徳川昭武関係では25人となります。栄一は「雨夜譚」で「一行は28人」と言っていますが、残りの3人は、会津藩と唐津藩からの留学生ではないかと思います。
(3)留学生
海老名季昌 会津藩の留学生
横山常守 会津藩の留学生
尾崎俊蔵 唐津藩の留学生
このほか、有名なシーボルトの子供であるアレクサンダー・フォン・シーボルトが帰国の途上ということで通訳として随行しました。さらに、パリ万国博覧会に出展する浅草の商人清水卯三郎も一緒にパリに向かいました。

