栄一、廃兵院や病院に驚く(「青天を衝け」113)
「青天を衝け」第22回で、ナポレオン一世のお墓を見に行きそこを守る傷病兵の姿をみて驚く場面がありました。
ナポレオン一世のお墓は、パリのセーヌ河左岸にある「廃兵院」のドーム教会にあります。「廃兵院」というのは、戦傷を受けて生活できなくなった軍人を収容する施設で、パリのものはルイ14世によって建築されました。栄一は、ここを見学しています。その時の驚きを描いたのが前述の場面です。
文春文庫「渋沢栄一」の著者鹿島茂元明治大学教授によれば、「幕末の日本人のパリ見学記がナポレオンの偉業にのみ感動しているとのえらい違い」だそうです。

そこで、今日は、栄一がパリで興味をもった「廃兵院」そして「病院」について書いてみます。
「廃兵院」を訪ねたことは、「航西日記」の慶応3年(1867)3月16日(西洋歴1867年4月20日)に次のように書かれています。
「午後三時。仏帝第一世那破烈翁(ナポレオン)の墳墓を尋ぬ。この墓はセイヌ川向博覧会場の最寄にて、デザンバリードといふ所也。結構壮麗規模広大にて他邦より来る者彼此を択ハず縦観せしむ。墳墓の傍に数棟の家屋あり。その家屋に寄寓するは。すべて戦争の節。重傷を受け廃人となりし類なり。けだし官より右様の地を撰みて。国に力(つとめ)し廃疾の者等を安治せしむるの法と見ゆ。墳墓の前殿および四方の戸々に立て。門番などする者は多くハ右戦争の節、手を傷めし人々なり。また器械など装塡(そうてん)羅列する処を守るは多く足を傷めし人なり」と書いてあります。
また、「青天を衝け」では描かれていませんでしたが、栄一は、昭武に従って病院を見学しています。
「航西日記」の慶応3年5月6日(西洋6月8)にその時の様子が書かれています。
数階建ての建物で、入口に守衛をおいて、各病室が病人の種類によって上等・下等に分けられていて、病室では番号のあるベッドがあり、寝具はすべて白く清潔に保たられていて、看護は尼僧がしているし、薬局や食堂もあり、シャワーや浴室もある等、詳しく病院の様子が記録されています。
そして、最後に「此の地にては、病者はからず病院について療養を請じ。医療の過ちにて夭殞(ようしょう:若くして死ぬこと)なく。その天然の齢を遂(とげ)るを得(え)せしむという。これ人命を重んずるの道というべし。」つまり「フランスでは、病人は全て病院で療養でき、医療の過ちによって若死にすることはなく、その天寿を全うできるという。これこそ人命を重んじる道である。」と書いています。
栄一が病院にも驚いた様子がよくわかります。
昭武に同行した人々の中に、医師の高松凌雲がいました。
「青天を衝け」では、細田善彦が演じています。(廃兵院で、栄一と一緒にカションから説明を聞いていたのが高松凌雲です。)
高松凌雲は、帰国後、榎本武揚に合流し、函館戦争に医師として参加します。そこで野戦病院の責任者となり、戦傷者を敵味方を問わず治療しました。これが我が国最初の赤十字活動と言われています。
また、パリ万国博覧会には、幕府と薩摩藩のほか、佐賀藩も出品していました。その佐賀藩を代表してパリに渡ったのが佐野常民でした。
この佐野常民は、明治10年の西南戦争の際に、「敵味方の区別無く負傷者を救護する」という赤十字思想を実践する「博愛社」を創立しました。この博愛社が発展して日本赤十字社となっています。
栄一は、明治以降、養育院と東京府病院の運営に,長く貢献し続けたことは良く知られています。
このように、パリ万国博覧会のために渡欧した栄一・高松凌雲・佐野常民が、図らずも明治以降の救貧事業や医療事業に大きく関与しているのは、パリでの見聞が大きく影響したことは確かだろうと思います。

