「倒幕の密勅」(「青天を衝け」120)
今日は、「倒幕の密勅」について書いてみます。
「倒幕の密勅」は、薩摩藩が中心となって、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の力を借りて、薩摩藩と長州藩に降下させた密勅です。
この密勅降下の裏で大いに活動していたのが、岩倉具視です。「青天を衝け」第23回でも、岩倉具視を軸に「倒幕の密勅」が描かれていました。
討幕派公卿の中御門経之は、10月6日に、京都岩倉にある自分の山荘に岩倉具視を招いて、大久保利通・品川弥二郎も呼んで、幕府を討伐して王政を復古する手立てを協議しました。岩倉具視は太政官の職制の案を提示し、玉松操が作れる錦旗の図を示して大久保利通を品川弥二郎に製作するよう命じました。
この場面は、「青天を衝け」でも描かれていましたね。
錦の御旗の製作を命じられた大久保利通は、大和錦・紅白緞子等を購入し、品川弥二郎に渡し、長州に持ち帰り、日月章の錦旗各二旒、菊花章の紅白旗各十旒を作るように指示しました。
この錦の御旗の作成については以前にこのブログに書いたことがありますので、ご一読ください。
同じ6日の夜、長州藩の広沢真臣・広島藩の植田乙次郎が入京し、7日辻将曹を訪ねて協議しました。その結果、薩長芸の三藩は連合して密勅の降下を奏請することとなりました。
その結果、10月8日大久保利通・広沢真臣・植田乙次郎は三藩を代表し、中山忠能、中御門経之に面会し、三藩は倒幕をめざすことに一致しその軍勢は大坂に地到着しているので、朝廷で御尽力をお願いしたいと要請します。
また、小松帯刀・西郷吉之助・大久保利通が連署した武力倒幕への決意を述べ、そのための「相当の宣旨」の降下をお願いする願書が,中山忠能,正親町三条実愛、中御門経之あてに提出されました。
そこで、岩倉具視は、玉松操に命じて討幕勅書の案文を起草させて、中山前大納言の手より内奏して勅許を得ました。
こうして10月13日、長州藩主毛利父子の官位復旧の御沙汰書が中山忠能から岩倉具視の手をへて、平沢真臣に渡されました。これにより、長州藩は京都で活動することが自由となりました。
そのうえで、14日、正親町三条実愛は、大久保利通と平沢真臣を自邸に召して、倒幕の密勅を渡しました。
薩摩藩に渡したものは、島津久光・島津茂久宛で、10月13日付でした。一方、長州藩に下したものは、毛利敬親・毛利元徳宛で、10月14日付のものです。文章の内容は同じでした。
また、これと同時に、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬を誅するという御沙汰書も渡されました。
この倒幕の密勅と同じ日に、徳川慶喜が大政奉還の上表をしたため、この倒幕の密勅は意味がなくなりました。
そのために、「暫見合,実行否可堪考」という討幕を猶予するようにとの沙汰書が、10月21日中山忠能から薩摩藩の吉井友実に渡されました。
倒幕の密勅については、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の署名だけであることから、偽の密勅だともいわれています。
これについて、「徳川慶喜公伝」では、「密勅に宣(のたま)える所はいとも畏(かしこ)し、論ずべからず、また密勅の形式についてもここに論ずる限りにあらず」として密勅が偽物かどうかについては特にコメントしていません。
しかし、密勅を奉請した事由については詳しく述べた後、「その志は公明正大なりとはいはざるべからず」と疑問を呈しています。

