晩香蘆(ばんこうろ)(渋沢栄一ゆかりの地25)
渋沢史料館のご案内を連載していますが、今日は、晩香廬(ばんこうろ)のご案内します。
晩香廬は、青淵文庫の東側にあります。下写真は、青淵文庫側から見た晩香廬です。こちら側が入り口になります。
晩香蘆は、渋沢栄一の喜寿(77歳)のお祝いとして清水組(現清水建設)から贈られた建物です。
晩香廬は,大正7年に竣工した建築面積79.24㎡(約24.0坪)、木造平屋建,寄棟造,屋根は赤色桟瓦葺の小さな建物で、洋風の茶室といった趣です。
設計は、清水組五代目技師長の田辺淳吉が行いました。下写真は、南側から見た晩香廬全景です。
晩香廬という名称は、渋沢栄一によって命名されたもので、「晩節を清くしたい。晩年に聊(いささ)かの香を発したい」という意味を込めたものと栄一自身が語っています。(詳細は最下段に書きましたので、参照してください)
また、晩香廬入り口手前に設置してある説明板(上写真)によれば、「バンガロー」の音に当てはめてあるとも書いてあります。なお、栄一の父市郎右衛門の号は「晩香」ですので、父への想いもあったのではないかと個人的に勝手に思っています。
下写真は、晩香廬の談話室内部です。よくみると窓の外側に渋沢栄一の銅像が写っていました。
晩香廬に入って、最も目立つのが、談話室の暖炉で、 黒紫色の落ち着いた色調のタイルが貼られていて、その暖炉上中央には喜寿を記念した「壽」の文字がタイルで描かれています。また、その上の額の文章は、栄一の長女穂積歌子によるものです。
額の上の天井のレリーフには、小鳥と植物(おそらく菊)が描かれています。
天井からの照明は和風で、そこに描かれているのは鶴です。洋風の建物に和風の雰囲気が取り込まれています。
晩香廬の南側に回ると渋沢栄一の銅像が建っています。(下写真)
以前は、うっそうとした木々の下にひっそり建っていましたが、渋沢栄一が脚光をあびるようになって、銅像周辺も整備されて、渋沢栄一の顔にも陽があたるようになりました。
台座に埋め込まれて銘鈑を読むと、当初は明治35年(1902)に第一銀行の兜町の本店が新築された際に中庭に建てられたようです。
関東大震災でも幸いにも被災を免れた後、昭和5年(1930)に本店が兜町支店となり、改築されるにあたって、昭和9年(1934)に世田谷区の清和園にあった誠之堂の前に移築されたようです。そして、昭和46年(1971)に晩香廬の前に移されました。
《参考》「滝野川町園遊会に於て」(デジタル『版渋沢栄一伝記資料』竜門雑誌 第417号より転載させていだきます)
「此隣庭に晩香廬という小屋があって、そこに掲げてある拙作の詩を摺物にして多分諸君の御手許え差上げたろうと思います。
葉落梧桐影徒長。 纔看楓柏帯微霜。
不嫌小院秋容淡。 只有菊花晩節香。
此詩の意味は葉が落ちてしまうと梧桐が唯空に突立って余り風情もありませぬ、それから楓や櫨が少し紅くなったけれども、是もお目に掛ける程のものでもない、故に此秋の庭は淡白で誠に物寂しい、ただ独り菊の花だけは晩節の香あり、後れて節を守るような香がするとこういう趣向であります、けだし聊(いささ)かの寓意であります。晩節の香ありというて決して自惚(うぬぼ)れる訳ではありませぬけれども、なるべく人は春の花の賑かに咲く時よりも、秋の菊の香の奥ゆかしい方がよかろう。ことに人生前半よりも後半が大切で老衰にひんしてもなお相当の努力を社会に尽したいというのが私の最も希望する所であります。この意味からしてたとい充分の働は出来ぬでも晩節を清くしたい。晩年に聊(いささ)かの香を発したいと平素心に思うて居りまするので晩香廬と名づけ、そこに寓意の拙詩を掛けて置くのであります。」