旧渋沢庭園(渋沢栄一ゆかりの地26)
渋沢栄一の自邸「愛依村荘」は、中心部分に日本館。西洋館があり、さらにこれまでご案内した青淵文庫、晩香廬がありましたが、そのほか広大な庭園があり茶室などが整備されていました。下写真は、昭和11年11月当時の曖依村荘の全体図です。これを見ると上部(実際は東方向)に庭園が広がっていることがわかると思います。

渋沢史料館の本館・青淵文庫・晩香廬は公益財団法人渋沢栄一記念財団が管理していますが、曖依村荘の庭園部分は、現在は旧渋沢庭園として北区の公園となっています。(下写真)

旧渋沢庭園は、渋沢史料館のすぐそばにありながら、ほとんどの人が見逃しています。そこで、今日は、旧渋沢庭園についてご案内します。
旧渋沢庭園には茶室などが整備されていましたが、昭和20年4月13日の空襲ですべて焼失しまい、現在は、建物の跡が残されているだけです。しかし、それぞれに説明板が設置されています。その説明板とともに旧渋沢庭園をご案内します。
茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。


茶席待合跡
茶席門を過ぎて茶席「無心庵」へ向かう途中に「茶席待合」がありました。
腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。
現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。


茶席「無心庵」跡
茶席待合を過ぎて真っすぐ歩いていくと庭園の主要建物が茶席「無心庵」がありました。
設計は茶人としても有名な益田孝の弟益田克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして明治32年(1899)に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられていました。
伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
邀月台(ようげつだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台が作られていました。
当時ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の雄姿を望むこともできたといいます。


兜稲荷社跡
旧渋沢庭園の東縁に兜稲荷社がありました。この兜稲荷社はもともと日本橋兜町の第一銀行構内に会った洋風の珍しい社です。
第一国立銀行の本店は、当初、最初、三井組の為替座として新築されました。その時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後、兜社は、為替座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれました。
そして、明治30年(1897)の第一銀行が改築されることとなり、その時に現在地に移築されました。
その後、昭和41年(1966)に破損が激しく危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。


山形亭跡
晩香廬の北側に石段を数段登る高台があります。これが山形亭とよばれた亭(あずまや)の跡です。
山形をした帽子のような屋根があったところから山形亭と名付けられたようです。石段を登って土台をみると六角形をしています。そうしたことから「六角堂」とも呼ばれていました。


飛鳥山公園の古墳
旧渋沢庭園の最奥部に古墳があり、びっくりしました。
この古墳は、古墳時代後期の直系31mの円墳で、周囲には幅3.8mの周溝が平成元年の調査で確認されました。
また、平成5年の埋葬施設の調査で切り石を使用した横穴式石室が確認され、石室から大刀や刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、ガラス小玉などが出土したそうです。本格的な古墳だったようですね。



