栄一、幕府瓦解を知る(「青天を衝け」125)
「青天を衝け」の放映が再開されました。第24回「パリの御一新」では、幕府の崩壊の連絡が江戸から届いた後、帰国することを決断し、パリを離れるところまで描かれていましたが、パリにいた栄一はじめ徳川昭武たちの運命もまた大きく転回することになりました。
大政奉還の上表が行われたのは、慶応3年10月14日です。パリにいる昭武への正式な通知は、すぐには届きませんでしたが、パリで発行されている新聞で日本の情勢はある程度は把握できていたようです。
日本での大政奉還の情報を伝え聞いて、栗本鋤雲らは、虚説だといっていましたが、栄一は事実だと思っていたようです。「雨夜譚」で次のように語っています。
「この歳の十月中に日本の京都において大君が政権を返上したという評判が仏国の新聞に出てから、様々の事柄が続々連載されて来るのを見たが、御旅館内外の日本人は勿論、公子に付添の仏国士官(コロネル・ビッケト)までが皆虚説であろうといって、 一向に信じませなんだが、独り自分は、かねて京都の有様はよほど困難の位地に至って居るから、早晩大政変があるに相違ないということはこれまでにも既にしばしば唱えて居ったことであるから、右の新聞紙を信用して他の人々にもその事を論弁しました」
パリに御用状が届き大政奉還が正式に通知されたのは、慶応4年1月2日のことでした。2ヶ月あまり遅れての情報でした。
それについて「雨夜譚」では、「やがてその翌年の一月頃になると追々に御国から報知があって、去年の10月12日(※注;正しくは14日)に将軍家には政権を朝廷へ返上になって、朝廷もこれを御聞届になり、薩摩と長州との間柄も一致して幕府に当るという有様であるとのことだによって、この上は一層急変を見るであろうと憂慮して」いたと語られています。
そして、「三、四月になると、正月の始めに鳥羽ロで幕府の兵と薩長の兵と戦をはじめて幕兵が敗走したによって、将軍家は大阪城を立退かれて海路より江戸へ御帰りになり、謹慎恭順の御趣意を幕府の諸士へ御示諭の上、水戸へ御退隠になったという一部始終の報知に接しました。」
栄一の予想通りの展開になってしまったのです。
こうした通知を受けて、年少の昭武がどうしたらよいかと思い悩むのは当然です。栄一自身も、「雨夜譚」で「誠に数千里を隔てた海外にあってかかる大変事を聞いたときの心配というものは、なかなか言語に絶した次第であった。」と語っています。
幕府崩壊という重大局面に直面していながら、江戸から遠く離れたパリにて乏しい情報のなかで、極度の不安・心配と感じるのは当然だと思います。

「青天を衝け」では、昭武が留学を続けることにしたことについては描かれていませんでしたが、幕府が瓦解した中でも、昭武は留学を続けるべきであると栄一は考えていました。「雨夜譚」から引用します。
「さて前にもいう如く幕府衰亡とすれば、向後民部公子の留学はどうしたら好いか、 このさいにわかに帰国せられたとて、将軍家は謹慎恭順して朝命に遵(したが)うという御趣意であってみれば別段公子の尽すべき事柄もあるまいから、むしろこのままに長く留学せられて、せめては一科の学芸にても卒業の上にて帰朝せられた方が御得策であろうと思慮を定めた」
そして、3月16日に徳川慶喜からの直書も届きました。
その文面は残されていないようですが、「昔夢会筆記」にその内容が栄一の談話として残されています。
「その御直書の趣旨は、 政権を返上したのみならず、こういうことになったという、 大坂の類末(てんまっ)を概略お書き遊ばして、そうしてこの日本の将来を思うに、 内輪の騒動をしておってはいけないから、 それで拠(よんどころ)なくこういうことにしたのだから、 誤解をしてはいかぬぞ、 せつかくその地へ出かけたことであるから、是非お前は留学の目的を十分達するようにしたい、(中略) ゆえに内国の騒動によって、 あわてて帰るというような考えをしてくれては困る、 というような手紙であったことを覚えております。」
こうした慶喜の意向もあって、当面、昭武の留学を続けることとしました。(「青天を衝け」では、慶喜から直書が来たことは描かれていましたが、留学を続けると決めたというようには描かれていませんでしたね。)
留学を続けるうえで、重要な要素が留学費用が続くかどうかですが、この点でも栄一はその才能を遺憾なく発揮します。そのお話は次回お話します。

