栄一、昭武の名で慶喜を批判する(「青天を衝け」128)
「青天を衝け」で、パリにいた昭武に慶喜から直書が届き思い悩む昭武に、栄一は文で慶喜に建白してはどうかと提案しました。
そして、「青天を衝け」では、その建白の内容ついても語っています。
その内容は、
①政権を朝廷に返されたのなら、なぜ兵を動かしたのか。
②戦のご意志があって兵を動かしたのなら、なぜ最後まで戦われなかったのか。③この先必ず、臆病、暗愚と罵られると分かりながら兵を置き去りにし、江戸へ戻られたのはなぜか。
④朝敵の汚名を着せられ追討軍に追われても勇敢な家臣とともに戦わずかような有様で300年の偉業を自ら捨てられ東照大権現様になんと申し上げるおつもりか
という4点でした。
実際に慶喜から届いた手紙に対する昭武の返信は、栄一が考えました。昭武が慶喜に出した手紙現物は残っていませんが、その草稿(下書き)が残こされていて、渋沢史料館で2017年に開催された企画展「渋沢栄一、パリ万国博覧会に行く」で初公開「徳川昭武書簡草稿綴(渋沢栄一筆)」として展示されていました。
当時は、写真撮影が禁止されていましたので、写真は採れませんでした。

そこで、展示会の図録(上写真)を購入してありますので、その展示会図録の解説文により、慶喜からの手紙に対する昭武の返信内容の概略を書いてみます。 ①この草稿は、栄一が慶喜の態度や行動に不満の意を抱き、その思いを昭武の名前で書簡に記して慶喜に宛てて送ったもの。
②そのため、草稿を書いたのは栄一だが、文章は昭武が自ら書いたという立場で書かれている。
➂その手紙の中で、王政復古クーデターを批判したうえで鳥羽伏見の戦いが「至誠の公道」であり、天下が望むものなのであると戦の大義名分を主張する。
④慶喜が戦(鳥羽伏見の戦い)を始めたにもかかわらず、江戸へ戻った後に「恭順」となったことについて、お考えが徹底していないと、慶喜の姿勢に不満を述べている。
⑤慶喜の態度は、徳川300年の歴史を自ら捨てるものであり、これから挽回することなどはできません、と述べて慶喜を批判している。
これを「青天を衝け」で栄一が語っていた内容と比較してみるとほぼ同じ内容であることがわかります。
栄一は、鳥羽伏見の戦い前後の慶喜の行動について、パリにいる頃から長いこと疑問に思っていました。
栄一の疑問はどんなものだったのでしょうか。栄一は、その疑問を、「徳川慶喜公伝」自序で書いていますので、その部分を紹介します。長くなりますが、お読みください。
「公は此時既に駿府(すんぶ)に退隠して居られたので、直(ただち)に拝謁も出来ず、公の御心事を二・三の知人について聴いて見ても十分に了解し得ぬ。既に大勢を看破せられて政権を返上なされたからは、何故に鳥羽・伏見において戦端を開かれたのであるか、仮令(たとい)公の御意中には求めて戦争をしようとは思召さぬでも、大兵を先供(さきども)として入京すれば、防禦の薩長の兵と衝突の起るのは必然の理である、それ程の事を御察しなさらぬ筈はない。果して御察しなされたとすれば、已(やむを得ざるにおいては、戦争も辞せぬ御覚悟であったようにも思われる。しかる時は何の為に大阪から俄(にわか)に軍艦で御帰東なされたであろうか、ついで有栖川宮の大総督として東征の際においては、一意恭順謹慎、惟(これ)命これ従うという事に御決心なされたのは何故であらうか、幕臣中に相当の知識も胆力もあって、武士の意気地(いきじ)已(や)むを得ぬという覚悟を持った人をも断然と排斥して、怯懦(きょうだ)と言われ暗愚と評せられても、聊(いささか)も弁解せぬという御決心までなされたのは何故であろうか。これらの御挙動は実に了解に苦しむ所であった。」
「私は仏蘭西滞留中又は帰国の船中などで、時々本国からの通信を見て、公の御動作に関して余りに腑甲斐なき有様を憤慨し、天子に対しては何様の事も犠牲にせねばならぬという、公の御趣旨は御尤ではあるけれども、実際は薩長二藩が事を構へ、朝命を矯めて無理に幕府を朝敵としたのである、幕府がもし力をもってこれを制し得れば、所謂(いわゆる)勝てば官軍で、薩長側が却(かえ)って朝敵となる事は、元治元年蛤御門の先蹤(せんしょう)が歴然である。これは道理から論じても事実から見ても、甚(はなはだ)だ明瞭だと信じて居たから、公の思召の程を何分にも能(よ)く了解し得なかった。」
最後までお読みいただきありがとうございました。
栄一が慶喜の行動で疑問に思ったことを要約すると次の四点だと思います。
①大政奉還したのに、なぜ鳥羽・伏見で戦ったのか?
②慶喜の意思では戦争しようとは思わなくても、大軍を擁して入京しようとすれば、薩長との衝突が起るのは当然である。それ程の事がわからないはずはない。わかっていたとすれば、やむえない場合には戦争も辞せぬ覚悟だったようにも思われる。それまでに覚悟をしていたのに、なぜ大阪から突然軍艦で江戸に帰ってきたのか?
➂また、有栖川宮を大総督とした東征軍が江戸に向かった際には、なにがあっても恭順・謹慎し、朝廷の命に従うと決心したのはなぜだろうか、
④また、意気地なし、あるいは暗愚といわれても、 全く弁解しないという決心までしたのはなぜだろうか?
こうした疑問は、同時代に生きた栄一だけでなく、現在も、多くの人が慶喜の行動に対して疑問に思うことだと思います。栄一は、その疑問をそのままにせず、明治になって解き明かそうとしました。
その結果が「徳川慶喜公伝」です。「徳川慶喜公伝」については、いつか「青天を衝け」でも取り上げられる場面があるかもしれません。それを楽しみにしています。

