栄一、横浜に着船する。(「青天を衝け」130)
「青天を衝け」第25回では、幕府崩壊直後の日本の激動ぶりを一気に知らされる栄一の姿を描いていました。それぞれについて順に説明していきますが、今日は、まず、栄一の帰国直後の様子について書いてみます。
栄一が、約1年半にわたるパリでの生活を無事終えて、横浜に到着したのは、慶応4年11月3日でした。マルセイユを発ったのが9月4日ですので、ちょうど2ヶ月かかりました。なお、「青天を衝け」では明治元年10月となっていましたが、これが正しいのか疑問です。また「雨夜譚」では12月3日に帰国したと書いてありますが、これも間違いだと思います。)
横浜に到着した時のことを栄一は「雨夜譚」で次のように語っています。
「さて日本へ着してみると、暫時(ざんじ)でも幕府の人となって海外旅行の留守中に主家が顛覆した次第であるから、江戸が東京となったばかりでなく、百事の変革は誠に意外で、幕臣はあたかも喪家(そうか)の狗(いぬ)の如く、横浜に着した時にもその取締の官吏から種々身分を尋問せられ、見るもの,聞くもの不愉快の媒(なかだち)ならざるはなしという有様でありました。やがて上陸して見ると杉浦愛蔵が出迎えに来て居て、懇切に世話をしてくれ、その他水戸藩から公子の御迎えに来た人々もあって、公子は直に東京へ御越しになり、 自分は公私の荷物を船から受取るなど種々の用事もあったによって、その晩は横浜に一泊と定めて杉浦と共に横浜に居住の友人を訪問して、久々にて日本の居宅に坐して日本の食事をなし、過ぎ越し方の日本の談話をしたのは、さすがに不遇の身にもいささか愉快を感じたことでありました。」
これを読むと、昭武も横浜に上陸したように思いますが、「青天を衝け」では、昭武は神奈川に上陸していました。
そこで、実際はどうなっているのか「渋沢栄一日記」で調べてみました。
11月3日と4日の日記の主な内容を現代文に改めて書いてみます。
十一月三日
4時30分頃に横浜港に着船した。そして、駿府より御迎として杉浦愛蔵・浜中儀左衛門がやってきていた。そのほか、塩田三郎・保科俊太郎・川路太郎なども迎えにでていた。水戸藩から迎えにでてきた人々と打ち合わせをするため井坂泉太郎が上陸し、夜8時頃に御迎之者一同がやってきた。そして(昭武は)すぐに上陸することになり、小舟で神奈川に向かった。杉浦愛蔵も諸事取扱としてお供した。
栄一と浜中儀左衛門は横浜に上陸し、栄一は、夜に川路太郎が泊まっている宿を訪ね、そこに田辺太一もやってきて一晩中思い出話をした。
十一月四日
(昭武は)朝、神奈川を出発し、小舟で品川に上陸した。御迎の馬も連れてきていたので、御乗切で小石川の御屋敷に到着した。フランスから付き添ってきた御供もお迎えの馬に乗馬し、お供の外の者は徒歩で小石川へ向かった。一方、栄一は、横浜に留まり、荷物の整理をしている。そして夜、杉浦愛蔵と共に田辺太一の宿を訪ねている。
「渋沢栄一日記」を読むと、昭武は、横浜に着船した後、水戸藩のお迎えの人々が乗船してきて、それから、神奈川へ向かい、そこで一泊し、翌日、水戸藩からのお迎えが馬を用意してやってきたので、昭武は馬に乗り、さらにフランスからお仕えした者(井坂・菊池等)も馬に乗り、他の人々は歩行で小石川の水戸藩屋敷に向かっています。
「渋沢栄一日記」で確認した結果、昭武は、「青天を衝け」の通り神奈川に上陸していました。
また、「青天を衝け」で帰国早々に福地源一郎、田辺太一と宿屋で日本の事情について話をしていますが、日記を見る限りは、着船当日は田辺太一や川路太郎と話をしています。なお、福地源一郎とは11月25日に江戸で会っています。
「渋沢栄一日記」では、帰国直後の昭武との関係もわかりますので、それについても触れておきます。
栄一は、着船後数日間、横浜に留まって、帰国関係の事務処理をしてから、11月7日に、杉浦愛蔵とともに水戸藩の小石川上屋敷に行き、昭武に拝謁しました。その翌日には、二人は昭武の御供をして後楽園を拝見しています。
さらに、11月25日に、小石川邸に行くと「明日、昭武と共にフランスに行った御供一同は小石川邸に罷り出るように」と申し渡されています。そして、26日夕方、杉浦愛蔵、伊藤玄伯と一緒に小石川邸に行きました。そして、昭武の御前でお酒を振る舞われました。日記には「御手酌ニ而種々御饗応有之」と書いてありますので、昭武は自ら酒を注いでまわりいろいろ饗応したものと思います。宴が終わり退出する際には一同への賜り物もあったようです。
昭武は、無事帰国できたため、慣れない異国で昭武をいろいろ助けてくれた御供の人たちを慰労する会を催したんですね。しかも自ら手酌でもてなしていることをみると昭武の優しさがわかるような気がします。

