慶喜、江戸に帰る(「青天を衝け」131)
「青天を衝け」第25回では、栄一は、慶喜から大坂城から江戸に突然帰ってきたという話を聞かされたのをきっかけに朝敵とされた慶喜の動向が描かれていました。鳥羽伏見の戦いが起きたのが慶応4年の1月で栄一が横浜に着船したのが11月3日です(ちなみに榎本軍が五稜郭に入城したのが10月26日)ので、約10か月間の激動が短時間で一気に描かれていました。様々の出来事の中で、今日は、鳥羽伏見の戦いから慶喜が江戸に戻り江戸城に入るまでについて書いてみます。
まず、時系列的に鳥羽伏見の戦いからの動きを書いていきます。なお、鳥羽伏見の戦いについては、以前、このブログで何回かにわけて書いてありますので、参考に付記しておきます。
《鳥羽伏見の戦いから江戸帰着までの経緯》
慶応4年1月2日、1万5千人の旧幕府軍が京をめざして行動を開始
1月3日 旧幕府軍は、淀から二つに分れ進軍し、鳥羽街道を北上した旧幕府軍に対して、鳥羽街道の小枝橋で薩摩藩が発砲し鳥羽伏見の戦いが勃発
小枝橋(鳥羽伏見の戦い①)
1月4日 錦の御旗が、鳥羽伏見の戦場に翻る。
錦の御旗、戦場に翻る(鳥羽伏見の戦い⑤)
1月5日 淀藩、淀城に旧幕府軍が入城することを拒否
淀城(鳥羽伏見の戦い③)
1月6日 津藩藤堂家は、旧幕府軍に対する砲撃を開始
「樟葉台場」と「高浜砲台」(鳥羽伏見の戦い⑦)
1月6日 徳川慶喜、大坂城で幕臣・諸藩兵を集め、対応を協議、出陣を求める声に応じ、出陣を宣言。しかしその晩大坂城脱出。その晩はアメリカ軍艦イロクォスに搭乗
1月7日 徳川慶喜、開陽丸に乗り込む
1月8日 徳川慶喜開陽丸で大坂出発、
1月11日 徳川慶喜、品川に到着
1月12日 徳川慶喜、浜御殿に上陸、騎馬で江戸城西の丸に入る
以上が、鳥羽伏見の戦いから慶喜が江戸城に戻るまでの経緯です。
こうした鳥羽伏見の戦い前後の慶喜の行動について、栄一が疑問に思ったことの一つは、「なぜ大坂から突然軍艦で江戸に帰ってきたのか?」ということでした。
慶喜は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北したという報告が大坂城に届くと大広間に幕臣や会津藩・桑名藩兵などを集めて善後策を協議しますが、「一刻も早く出陣し薩長を征伐すべき」との声で沸騰し、慶喜は「それでは、直ちに出陣する。皆々準備せよ」と出陣を宣言します。そうして、全員が出陣準備のためあわただしく大広間から下がるのを確認すると、直ちに、数名の側近を従えて、幕府海軍の開陽丸に乗り込んで江戸に帰ってきます。
どうして、こんな行動をしたのだろうかというのが栄一の疑問です。
これについて、慶喜が、「昔夢会筆記」の中で、次のように語っています。
「(前略)江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず。試みに諸有司・諸隊長などを大広間に召し集めて、『この上はいかにすべき』と尋ねたるに、いずれも血気に逸(はや)れる輩(やから)のみなれば、皆、異ロ同音に、『少しも早く御出馬遊ばさるべし』というのみなれば、よきほどにあしらいおき、板倉・永井を別室に招きて、恭順の真意は漏らさず、ただ東帰の事のみを告げたるに、両人は『ともかくも一旦御東帰の方然るべからん』といえるにより、いよいよそれと決心し、ふたたび大広間に出でて形勢を観るに、依然として予が出馬を迫ることしきりなりしかば、予は『さらばこれより打ち立つべし、皆々その用意すべし』と命じたるに、一同踊躍して持場持場に退きたり。予はその隙に伊賀(板倉勝静)・肥後(松平容保)・越中(松平定敬)等わずかに四、五人を随えて、潜かに大坂城の後門より脱け出でたり。城門にては衛兵の咎(とが)むることもやといたく気遣いたれど、御小姓なりと詐(いつわ)りたるに欺(あざむ)かれて、別に恠(あや)しみもせざりしは誠に僥倖なりき。」
慶喜は、断固恭順するのだという決意を強く固めていたようです。その上で、大広間に集まった幕臣・諸藩兵にいかにも出陣するかのように欺いて、その隙に、側近とともに大坂城を逃げ出したということのようです。
慶喜が、恭順に決した理由も、前述の「昔夢会筆記」で大坂城退去の理由を説明する前段として説明しています。
それによると、1月6日に会津藩士の神保修理長輝が拝謁し、「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに前後の計をめぐらさるべし」と建言し、永井尚志も賛成した。二条城から大坂城に下る際に、強硬派の会津藩・桑名藩を地元に返すべきところ、それができず「勝手にしろ」と言ってしまったのが大きな失敗だと後悔していた時に神保修理からの建言を聞いたので、江戸に帰り断固恭順すると決心したと言っています。
慶喜の東帰について大きな影響を与えた神保修理は、会津藩家老神保内蔵助の嫡男として生まれ、京都守護職松平容保の側で仕えていました。会津藩兵が江戸に帰った後、旧幕府軍が崩壊した責任は神保修理にあると強く批判され、幽閉された後、切腹を命じられ自刃しています。幕末の会津藩悲劇の一つです。
「青天を衝け」の中で慶喜の江戸帰着の場面で気が付いた点を二つばかり書いておきます。
一つは、慶喜を浜御殿で小栗上野介が出迎えて、江戸に戻ったことを批判していましたが、実際、小栗上野介が出迎えていたのか疑問に思っています。
二つ目は、小栗上野介が出迎えて諫言した際に慶喜がビスケットを食べていましたが、浜御殿に到着した慶喜はお腹が空いていたのでなにか食べるものを所望した時、木村喜毅 (よしたけ)が自宅にあったビスケットを取寄せ差し上げたと言われています。木村喜毅は、長崎の海軍伝習所頭取を勤め、日米修好通商条約批准のため派遣された遣米使節に随伴した咸臨丸の司令官としてアメリカに渡った経歴もあり、ビスケットを持っていたようです。
下写真は、慶喜が江戸に戻り浜御殿に上陸した際に使用した「将軍お上がり場」です。


