静寛院宮(和宮)の嘆願(「青天を衝け」132)
慶喜は、浜離宮で上陸した後、江戸城西の丸に入ると静寛院宮(和宮)と天璋院に御目通りを願います。しかし、静寛院宮(和宮)は御目通りを許しませんでした。その理由は、慶喜が西洋風の服装をしていたためだという説もありますが、「朝敵となった慶喜には会いたくない」と言って会うのを許さなかったと「徳川慶喜公伝」には書かれています。
一方、天璋院は御目通りを許してくれました。その場面が「青天を衝け」での慶喜と天璋院との会談の場面だと思われます。「青天を衝け」では、天璋院から慶喜に厳しい言葉を投げかけられていました。
しかし、「徳川慶喜公伝」の中では、慶喜が江戸城に戻ったその日の午後4時ごろに慶喜から鳥羽伏見の戦いから江戸に戻ってくるまでの経緯を聞いたとだけ書かれていて、天璋院との会談の内容については、触れられていません。
一方、静寛院宮からの嘆願書を岩倉具視が読んで涙する場面が「青天を衝け」でありましたが、この静寛院宮の嘆願については、「徳川慶喜公伝」に詳しく書かれていますので、今日は、静寛院宮の嘆願について書いていきます。下写真は、増上寺安国殿に安置されている和宮の銅像です。

慶喜が江戸に帰ってきた当日の面会を断った静寛院宮は、天璋院の執り成しにより、15日に慶喜に対面し、慶喜は大政奉還以来の顛末を詳細に報告しました。
そして、17日に静寛院宮は天璋院と相談し、朝廷へ嘆願のため、使者を遣わすこととしました。そして、その使者には静寛院宮御付の上臈土御門藤子が選ばれ、静寛院宮から橋本実麗(さねあきら)・実梁(さねやな)父子宛の手紙と慶喜の嘆願書をもって京都に向かいました。なお、静寛院宮(和宮)の母は橋本実麗(さねあきら)の妹であり、実麗(さねあきら)は静寛院宮の叔父にあたります。
静寛院宮から橋本実梁(さねやな)に宛てられた手紙は「徳川慶喜公伝」によれば、次のような内容です。原文は「候文(そうろうぶん)」ですが、ここでは現代文風に書き換えてあります。
「さる3日、朝廷からお召によって慶喜が上洛しようとしたところ、不慮の戦争となって、慶喜は朝敵の汚名を蒙ったので、 ひとまず江戸に帰ってきましたが、征伐のため、官軍差向けられるようですが、徳川家の浮沈は今この時だと心痛しています。今回の一件はともかくも重々不行届の事ですので、慶喜自身がどのように仰せ付けられても構いませんが、何とぞ(徳川家の)家名は立ち行くように幾重にも願いします。後世まで徳川家が朝敵の汚名を残してしまう事は、私の身にとって本当に残念に思います。私への御憐愍(ごれんびん)とお考えいただき、汚名をそそぎ徳川家の家名が成り立つよう、私の身命にかえてお願いします。
官軍を差向けられて徳川家が取潰しになった場合には、私も徳川家の減亡を見ながら生命を永らえることはできませんので、きっと覚悟をする(命を絶つという意味だと思います)考えでおります。私の一命は惜しむことはありません。朝敵とともに身命を捨てるのは朝廷へ恐れ入る事と心痛しております。」
橋本実麗(さねあきら)に宛てられたものも、同じ趣旨でした。
静寛院宮の手紙の内容は、自らの命に代えても徳川家の家名を守りたいとの気持ちがこもった切々たるものがあります。この心情が朝廷を動かすことになります。
また、土御門藤子が出発しようとする時、慶喜は藤子を呼んで、「私の進退は朝廷の命令に従うつもりである。切腹しろというのであれば切腹する。」と伝えました。
土御門藤子が京都に到着した時は、橋本実梁(さねやな)は東征軍の東海道鎮撫総督として江戸に向かった後であったので、土御門藤子は橋本実梁(さねやな)が滞在していた桑名まで引き返して、静寛院宮からの手紙を差出し、藤子自身も陳情しました。橋本実梁(さねやな)は宮の手紙を読んで感動し、宮の手紙を土御門藤子に持たせ京に行かせ、萬里小路(までのこうじ)博房に朝議を行うよう要請するように指示しました。萬里小路博房は、岩倉具視、倉橋泰聡、長谷信篤等と相談しました。
「青天を衝け」で岩倉具視が天を仰いだのは、この静寛院宮の手紙を読んだ場面を描いたものだと思います。
静寛院宮の手紙を読めば、こう感じるのが普通だと思います。
朝廷で協議した結果、土御門藤子を江戸に返して、静寛院宮へ「今回のことは実に容易ならないことだければも、慶喜の謝罪が条理にそって明白なものであれば、徳川家が存続するという篤い思し召しもあるように思われるので、そう承知しておいてください」と復命させることとなりました。
慶喜の謝罪がしっかりしたものであれば、徳川家自体の存続はありうるという回答でした。これにより徳川家存続の道が開かれることになりました。
関東に下向し徳川家に輿入れすることを非常に嫌がっていた和宮が、徳川家の危機に際して、徳川家の一員として家名存続のため身命をかけて朝廷に願いでたことが、徳川家存続の道を開きました。さらに、慶喜の命も救うこととなりました。

