渋沢成一郎と彰義隊・振武軍(「青天を衝け」133)
「青天を衝け」第25回では、渋沢喜作の動向が描かれていました。栄一が帰国した時には、喜作は箱館で新政府軍と戦っていました。「青天を衝け」では、鳥羽・伏見の戦いから箱館までの喜作の動向がえがかれていましたが、今日は、鳥羽伏見の戦いから飯能戦争までの渋沢喜作の動向について書いてみます。
彰義隊結成から飯能戦争までの喜作の動向が書かれているのは尾高惇忠の伝記である「藍香伝」(塚原荊州著)です。尾高惇忠は彰義隊や振武軍で参謀として喜作を助けていたので「藍香伝」の中で成一郎の動向が書かかれています。「藍香伝」は漢文ですが、それを現代語訳した「新藍香伝」(現代語訳吉岡重三)がありますので、それを基に書いていきます。 なお、一橋家に仕えた時から喜作は成一郎と名乗っていて彰義隊関係の書物でも渋沢成一郎としていますので、ここでは渋沢成一郎として書いていきます。

渋沢成一郎は、栄一がフランスに渡っている間に、奥祐筆となっていました。鳥羽伏見の戦いの際には、軍目付として戦況を確認し大坂城に戻ったところ慶喜は江戸に脱出した後でした。
慶喜なきあとの旧幕府軍は、紀州に向かい、そこから船で伊勢もしくは三河に向かい、そこから江戸に向かうこととなり、渋沢成一郎は、紀州藩との交渉を命じられ紀州へ行きました。そこで、船を見つけ、三河国吉田に着きました。ここでも、旧幕府兵の引き上げの支援を行った後、2月4日に江戸に帰ってきました。
そのころ、もともと一橋家家臣であった本多敏三郎、伴門五郎らが慶喜の汚名を雪ぐため、2月11日に雑司ヶ谷の料理茶屋茗荷屋で会合を開きました。これが「尊王恭順有志会」です。この時の参加者17名だったといいます。集まった人数が少なかったため、2月17日に四谷円応寺で会合が開かれ、30数人が集まりました。
21日にも円応寺で会合が開かれ、この時に初めて成一郎が参加しました。この会合では67名の有志が集まりました。
また、この会合に、後に成一郎と対立する天野八郎も加わりました。天野八郎は、上野甘楽郡の庄屋の子供で、幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ彰義隊の中心人物となりました。
この席で、惇忠が準備した「同盟哀訴申合書」に血判を押すこととし、最初に成一郎、2番目に天野八郎が署名しました。
そして、翌日に、もっと大勢の仲間を集めて浅草の東本願寺に集合することが申し合せられました。
2月22日に開かれた東本願寺での会合が彰義隊の結成式となりした。この会合で、隊名を「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が選ばれました。
彰義隊は、幕臣に限るとされたため、尾高惇忠は、名簿から外されていたものの、参謀として処遇されていました。
彰義隊結成の情報が広まると、続々と幕臣たちが参加し、その人数は1000人を超えるほどとなりました。
3月中旬に、彰義隊は、寛永寺に謹慎する慶喜の警護を名目に、寛永寺に移動しました。また、江戸市中の取り締まりを担当することになりました。
4月4日、新政府は慶喜は水戸での謹慎を命じられ、4月11日に慶喜は寛永寺を出て水戸へと向かいました。成一郎たちは千住まで見送りました。
慶喜が水戸に去った後、彰義隊内で、渋沢成一郎と天野八郎の対立が激しくなりました。
慶喜や徳川家の名誉挽回を第一義とした成一郎は、慶喜が退去した後は上野を去り郊外へ拠点を移そうとしました。一方、天野八郎は、新政府軍との対決姿勢を強めようとしていて、拠点は従来どおり寛永寺としようとしました。
彰義隊の隊員の多くは、上野寛永寺を退去することに抵抗があり、多くが天野八郎を支持しました。そこで、渋沢成一郎、尾高惇忠、渋沢平九郎らは彰義隊を脱退しました。
脱退後、成一郎は大塚の自宅に留まっていましたが、彰義隊の挑発行為を成一郎の指示によるものと疑う新政府軍と彰義隊からも命を狙われる事態となったそうです。
彰義隊を脱退した成一郎らは堀の内祖師堂の茶屋「信楽」を拠点に同志を集めることになりました。この「信楽」に集まった同志は80~90人だったそうです。
この時点で成一郎らは武器弾薬を所持していなかったが。尾高惇忠が奇計を持って、三番町にある幕府の兵営からミニエー銃300丁を手に入れています。
渋沢成一郎たちは、田無(現・東京都西東京市)の西光寺を本営として屯集し、隊の名前を「振武軍」と定め、成一郎が隊長、尾高惇忠が参謀長となりました。
振武軍は、田無に1か月あまり駐留した後、田無の西方の箱根ヶ崎に移りました。箱根ヶ崎に移ったのは、田無では江戸中心部と距離が近く、新政府軍からの攻撃を受けやすいため、それを避けるためでした。
そして、成一郎は、田無、淀橋、新宿、四谷、番町に斥候を置き、新政府軍と彰義隊との間で戦端が開かれた際には、早馬を使って逸早く本陣に報告し、官軍の側面を攻撃しようと考えていました。
5月15日、斥候から上野戦争が勃発したとの知らせが届くとその日の深夜0時に箱根ヶ崎を出発しましたが、田無まで来ると彰義隊が壊滅したとの報が届きました。
そこで、幹部が相談した結果、振武軍は、江戸より離れている飯能に移動することとなりました。
飯能周辺には一橋家の領地があり、栄一と成一郎が元治元年(1864年)に人選御用のため関東に出張した際に一橋領を訪れ、農兵の募集を行っていたことがあり、土地勘があったことも拠点を移す理由となったと考えられます。
振武軍らは5月18日昼ごろ、飯能に到着すると能仁寺を本営としました。能仁寺は、曹洞宗のお寺で、久留里藩黒田家の菩提寺でもあります。(下写真は能仁寺の本堂です。江戸検1級仲間の小ツルさんから借用しました。)

上野戦争で勝利した新政府軍は、飯能の振武軍を攻撃するため、表口の川越方面からは大村藩、薩摩藩(実際は佐土原藩)が攻撃に向かい、裏手の秩父方面は、前橋、忍、岩槻三藩が攻撃に向ってきたと成一郎は「藍香伝」の中で語っています。
5月23日、新政府軍は攻撃を開始しました。
振武軍も必死に抵抗しましたが、午前11時ころ、二発の砲弾が能仁寺の本堂に直撃し、寺内はたちまち炎に包まれ、前方からは新政府軍が鬨の声をあげながら攻め寄せ、背後からは猛火が迫る中、5時間近い戦闘により疲労も限界だったこともあり陣地を捨てて敗走しました。
その後、成一郎と惇忠は、飯能を脱出し秩父方面を逃げた後、草津、伊香保(現・群馬県渋川市)方面に潜伏し、成一郎は江戸に向かい榎本武揚の率いる旧幕府艦隊に合流し、尾高惇忠は機会を見計らった上で郷里に戻りました。
しかし、栄一の見立養子であった渋沢平九郎は、成一郎や惇忠とは別方向である越生(おごせ)方面へ逃げたものの、新政府軍に見つかり、自刃して果てました。渋沢平九郎についても、後日、このブログに書く予定です。

