渋沢成一郎、箱館戦争で戦う(「青天を衝け」134)
渋沢成一郎は、飯能戦争で敗北して、草津・伊香保あたりに潜伏した後、江戸に入り、榎本艦隊と合流し、箱館に向かいました。
今日は、榎本艦隊への合流から箱館戦争の終了時期までの成一郎の動向をたどってみます。
「藍香伝」は、尾高惇忠の伝記です。そのため、成一郎と一緒に行動した彰義隊の結成から飯能戦争での敗北までは、成一郎の動向について書かれていますが、敗北後は惇忠と成一郎は別行動をしているため、「藍香伝」には成一郎の動向は書かれていません。
しかし、「上野彰義隊と箱館戦争史」は、タイトルの通り、彰義隊の結成から箱館戦争までの彰義隊の動向が書かれていて、その中に、成一郎の動向が書かれています。そこで、今日は「上野彰義隊と箱館戦争史」(下写真)を基に、成一郎の動向を書いていきます。

伊香保から江戸に入った成一郎がいつ榎本の軍艦に乗り込んだかは定かではありませんが、7月22日、軍艦「長鯨」には、上野戦争で敗れた彰義隊の人々も乗り込んできた時には、既に成一郎が「朝鯨」に載っていました。
成一郎は、この人たちと合流して新たな彰義隊を結成することになり、成一郎が頭になりました。しかし、成一郎が簡単に頭になれたわけではありません。というのは、彰義隊の面々が成一郎が頭になることに頑強に抵抗したためです。しかし、榎本武揚の説得により成一郎が頭となりました。ただ、それ以外の幹部は上野で戦った彰義隊の面々(以後、反渋沢派と称します)で占められました。彰義隊は総勢200人前後でしたが、成一郎に同行していたのは35人ほどでした。
8月19日、榎本艦隊は、北へ向かい出航しましたが、途中で暴風雨に遭遇し、旗艦「開陽」は、8月24日に松島湾に到着し、その他の軍艦も、前後して松島湾に到着しました。9月3日、仙台で開かれた奥羽越列瀋同盟の軍議に榎本武揚が出席しましたが、この会議に成一郎も参加しています。
10月12日、榎本艦隊は、蝦夷地に向かい出航しましたが、この時には、彰義隊は、奥羽を転戦してきた旧幕府軍の人たちを加え、総勢260人を超えた人数となっていました。
10月20日、「開陽」は蝦夷地の箱館の北方にある内浦湾の鷲ノ木沖に到着しました。そして、翌21日に大鳥圭介を指揮者とした部隊が箱館に向かって進軍を開始します。多少の抵抗はあったものの、8月26日、榎本軍は五稜郭に入城しました。一方、土方歳三を指揮者とする別働隊も鷲ノ木を21日に出発し、26日夕刻五稜郭に入城しました。下写真は五稜郭タワーから見五稜郭です。

彰義隊は、鷲ノ木への上陸が遅れ、しばらく鷲ノ木に留まったのち五稜郭に向かいました、彰義隊が五稜郭に入城する前に、旧幕府軍は、軍議により、松前城攻略を決定します。そして、28日は、松前藩の攻略をめざして土方歳三を総指揮者として旧幕府軍は松前に向かいました。
この松前瀋との戦闘に彰義隊は先鋒を命じられ、成一郎は彰義隊を率いて、参加しています。11月2日には福島に入り、土方歳三率いる本隊が11月3日に到着し、直ちに攻撃部署を定め、彰義隊は、改めて先鋒を命じられました。
11月5日早朝、松前城攻略が始まり、彰義隊は搦め手から攻撃を開始しました。午後1時頃には城内に火が放たれ、城兵は敗走しました。土方歳三は彰義隊を初めとする攻撃軍を率いて入城し、成一郎も土方歳三に従って城内に入りました。
「青天を衝け」では、成一郎と土方歳三が協力して戦っている場面がありましたが、この頃を描いた創作だと思われます。
攻撃軍は11月10日まで松前城に滞陣しましたが、この間に、成一郎と反渋沢派の人々の間で対立がおきます。原因はハッキリしませんが、成一郎が松前城突入の際、金蔵を荷車に乗せて城外に運び隠している内に先陣争いに敗れたためという説もあるようです。
彰義隊での対立があったため、土方歳三の判断で、反渋沢派の彰義隊は、江差に向かって進軍しますが、成一郎たちは松前に残ることとなりました。
江差も攻略された後、土方歳三はじめ攻略軍は箱館に戻り、彰義隊も14日まで五稜郭に入りました。
五稜郭では、反渋沢派彰義隊から榎本武揚に訴えがあり、彰義隊内の対立について、榎本武揚は反渋沢派の主張に理解を示し、菅沼三五郎と池田大隅守を彰義隊の頭に任じました。
一方、松前に残された成一郎たちがいつ五稜郭に戻ったかなどの消息はハッキリしていないようです。
12月15日、旧幕府軍は蝦夷地平定の祝賀会を開くとともに入札(選挙)が実施され、榎本武揚が総督となり、土方歳三は陸軍奉行となりました。しかし、成一郎の名前は幹部の中にありません。
この頃に、彰義隊の分裂が決定的となり、成一郎は自分に従う人々とともに「小彰義隊」と名乗りましたが、30~80人程度の人数のため一部隊として存続できず、伝習仕官隊の三番小隊として行動しています。
さらに部隊に成一郎が残ると反渋沢派の「彰義隊」と軋轢を生む可能性を考慮して、成一郎は「陸軍奉行添役」として五稜郭勤務となりました。
なお、陸軍奉行添役は、陸軍奉行の補佐役であり、今井信郎なども任命されているので、決して閑職ではなかったようです。
真冬の雪のため本格的な攻撃ができなかった新政府軍も、雪解けを待って明治2年4月9日、上陸作戦を開始しました。上陸地点は、江差北方の乙部でした。新政府軍は、ここから江差を攻略し、松前を奪還し、そして箱館に迫ってきました。
5月10日には新政府軍は箱館山の裏側から上陸し、11日五稜郭と箱館市中への総攻撃が開始されました。
この日、土方歳三は、箱館の一本木関門防衛にあたっていましたが、ここで戦死し、土方の戦死後、湯の川方面の守備を担当していた「小彰義隊」も一本木関門の奪還の戦いに参加していますが、奪還はできませんでした。下写真が「土方歳三最期の地」と言われている「一本木関門の跡」です。

5月12日になると、旧幕府軍の残る拠点は千代ヶ岡陣屋、弁天台場、五稜郭のみとなり、15日に弁天台場が降伏し、16日は千代ヶ丘陣屋が総攻撃を受けました。千代ヶ岡陣屋には、成一郎と「小彰義隊」がいましたが、新政府軍の総攻撃が開始されると、脱走して湯の川に逃れ、そこに潜伏しました。
5月17日に、新政府軍と旧幕府軍の和議が成立し、18日には五稜郭が開城し戊辰戦争は完全に終結しました。
五稜郭が正式に降伏すると、旧幕府軍の人々は寺などへ収容されました。
一方、成一郎は五稜郭降伏後も湯の川に潜伏し続け、6月18日になって新政府軍に出頭し、7月5日に東京へ送られ、軍務官糾問所に収容されました。
これにより成一郎の戊辰戦争が完全に終わったことになります。
栄一が、帰国したのは11月5日でした。栄一が帰国した11月5日の頃、箱館では10月26日に旧幕府軍が五稜郭に入城し、11月5日は、松前城への攻撃が行われた日です。
「雨夜譚」によれば、栄一は帰国翌日に、成一郎宛に手紙を送っています。栄一は、成一郎が箱館で戦っていると聞いて、成一郎に手紙を送らざるをえない気持ちだったのだと思います。「雨夜譚」で次のように語っています。
「早速一通の書状を認めて、箱館にある喜作の手へ送達することを横浜の友人へ託しました。その書中には「詳しく前の理由(蝦夷地で武備を整えて内地に押し出す軍略のようだが、それではとても望みのない話だということなど)を述べて、さてせっかく久々の面話を楽しみに帰国した処が、貴契も箱館行だと聞いて誠に失望して遺憾千万である。かつまた箱館へ集合した人々の未来は前にいう通りの結果であろうと思考するから、その趣を榎本氏へも伝えられたし、また今日の形勢ではもはや御互いに生前の面会は望み難いことであるによって、 この上は潔く戦死を遂げられよと懇(ねんご)ろに申し送りました。」
「青天を衝け」でもこのことは描かれていましたね。
でも、栄一は、成一郎と二度と会うことはないだろうと語っていますが、二人は、生きて再会できることになります。

