三野村利左衛門、小栗上野介の遺児を保護(「青天を衝け」141)
前回、三野村利左衛門が小栗上野介の妻子を護ったということを少しかきましたが、今日は、そのお話を詳しく書こうと思います。
三野村利左衛門は、小栗上野介がまだ家督を継ぐ前に若い頃に、仲間(ちゅうげん)として小栗家に奉公していました。年齢が同じくらいなので、三野村利左衛門と小栗上野介は主従でありながらも親しい関係にあったといいます。
そして、三井が苦境に陥った際に、三野村利左衛門の持ち前の高い才能と当時の勘定奉行小栗上野介と親しいということを買われて、三井の重役に雇い入れられました。
通常、三井では、丁稚から多くの階段を上り、その間の選抜試験を乗り越えた者だけが重役となりました。ですので、三井の重役は何十年も三井で勤めていた者がなるのが普通です。しかし、三野村利左衛門は、いきなり重役として三井に入っているわけですので、それだけ、三井が三野村利左衛門を高く評価していたことがわかります。
徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗北し江戸に戻った際に、小栗上野介は強硬に新政府軍と戦うことを主張しました。そのため、恭順すると決めていた慶喜により勘定奉行を罷免されました。
そこで、小栗上野介は、自分の領地である上州権田村に引きこもることとしました。
この時に、既に三井の重役となっていた三野村利左衛門は小栗上野介に千両箱を贈り「アメリカに一時渡りなさい」と亡命を勧めたといいます。しかし、小栗上野介はその申し出を断り「好意は感謝するけれども、思うところがあって、しばらく上野国に引き上げる。もしも後年、婦女子が困ることがあったならば、その節には、よろしくたのむ」と応えたそうです。(三野村清一郎著「三野村利左衛門伝」より)
この三野村利左衛門の申し出を断った小栗上野介は、上州権田村に移住しました。
しかし、小栗上野介は、慶応4年閏4月6日、新政府軍により十分な取り調べもなく権田村の水沼河原で斬首されました。詳しくは下記ブログ参照
小栗上野介は、道子夫人と別れる際に、万が一の場合には会津に逃れるように指示し、道子夫人を村役人百姓代の中島三左衛門に託しました。
中島三左衛門は村人たち30人余りで護衛隊を作り、会津をめざしました。
この時に、道子夫人のほかに、上野介の母くに、養子又一の許婚鉞子(よきこ)も一緒に会津をめざしました。
会津までの脱出のコースは、高崎市にある東禅寺のホームページによれば、権田―六合村―地蔵峠―秋山郷―十日町―六日町―新潟―水原―津川―会津若松 となっています。
東善寺には、会津までの逃避行の道順を書いた地図が掲示されていました。(下写真)

一行は現在の群馬県と新潟県の県境に横たわる山を越える険しく狭い山道を脱出していきました。(上写真の左側の黄色ルートをたどって会津に到着しました。)
妊娠8か月で身重な道子夫人は、山駕籠に乗ったり、あるいは駕籠に乗せることができず草刈籠の中にいれて村人がそれを背負って山道を進んだこともあったそうです。こうした険しい山道を伝わってようやく新潟にたどりつきました。新潟は、小栗上野介の父忠高が新潟奉行を勤めていて、ここで亡くなった土地でしたが、新潟も安住の地ではないため、2泊しただけで、会津に向かいました。会津に入った道子夫人たちは、会津藩若年寄横山主税の家族に迎えられ、困難を極めた脱出行も無事終わりました。ちなみに横山主税は、徳川昭武がパリ万博に派遣された際に会津藩から留学生としてパリに同行しましたので栄一とも面識はあったと思います。
横山主税は、閏4月29日に道子夫人たちが到着したときは、白河城に出撃していましたが、5月1日に戦死し、会津城下にも新政府軍が迫ってきたため道子夫人は横山家を出て、南原の野戦病院に移動し、無事女の子を出産しました。
道子夫人は生まれた女児を国子と名づけました。小栗上野介の母はくにといいましたので、その名前にちなんだと言われています。
道子夫人と国子は、会津戦争が終わった後、翌年の明治2年春会津をたって東京へ出て、さらに静岡まで移動しました。
なお、道子夫人らを静岡まで送り届けて権田村へ戻った中島三左衛門は、権田村を管理していた高崎藩に帰村届を出しました。その際に、問われるままに、道子夫人の脱出の顛末、静岡で小栗家を再興したことなどを報告しました。これを聞いた高崎藩の役人は非常に感嘆し、「汝等は小栗上野介の家臣でなく、領地の村役人に過ぎないのに、身命を賭して小栗上野介のために尽くした赤誠は、代々禄を食んだ家臣でも遠く及ばない」と激賞し、苗字帯刀を許し、姓を中島から「誉田(ごんだ)」と改めるよう申し渡されたそうです。
道子夫人ら、静岡に移り住む際に、三野村利左衛門の手助けを得、さらに静岡から東京へ戻ってからも、深川の三野村利左衛門の屋敷に引き取られ、引き続き庇護を受けることになります。下写真は、三野村利左衛門の屋敷跡に建つ「三野村株式会社」のビル。


三野村利左衛門は明治10年になくなりますが、利左衛門が亡くなった後も、三野村家は小栗上野介の遺児を保護しつづけました。そのことが三野村清一郎著「三野村利左衛門伝」に書かれています。この本は三野村利左衛門の曽孫三野村清三郎が書いていますが、子孫も利左衛門の報恩を誇りに思っているように感じられますので、そのまま引用します。
「明治2年ふたたび東京に戻った遺族は、利左衛門の救いの手によって旅費を恵まれ静岡へ落ちのび、その後夫人と遣児はふたたび上京、深川の三野村邸に移り住み、以来利左衛門の庇護のもとにあった。三野村合名に現存の「元方目録勘定調書」によれば「小栗国助情金」(※「助情」は「助成」と同じ意味のようです)名目で明治10年4月から明治20年までに、金1450円42銭6厘が支出されている。大変な金額である。おそらく今日に換算すれば何百万円に相当するであろう。利左衛門の旧主小栗に対する報恩の厚い志と、前記の小栗最後の頼みによく応えて変わらなかった誠実さが察知できょう。まさに″美談〃である。
なお、遣児の国子は、明治18年に大隈重信のもとに引きとられ、矢野文雄(龍溪)の弟貞雄を迎えて小栗家の名跡を保った。大隈夫人と上野介とは旗本三枝氏を通じて縁戚の関係にあったから、その縁によるものである。前記の助情金は、明治12年(※10年の間違いでは)4月からのものであり、同20年に至っている。すなわち利左衛門歿(※明治10年)後、大限家に引き取られ、さらに結婚後に及んでいる。三野村の遺族もまた、亡き利左衛門の存意をよく汲んでの仕儀であったと見ることができよう。」
この中で、「1450円42銭6厘」は「今日に換算すれば何百万円に相当する」と書いてありますが、「三野村利左衛門伝」の出版されたのが昭和44年ですので、令和3年の現在では、さらに価値が上がっていると思います。
明治時代の小学校の教員の初任給から換算した数字では明治の1円は現在の約2万円にあたるという情報もありますので、仮に明治の1円が現在の2万円にあたるとすると約3千万円となりますので、三野村家はすごい支援をしていたということになります。
まさに小栗上野介の恩に報じる「報恩」を三野村利左衛門と三野村家は実践したことになると思います。
「青天を衝け」の明治編には、大隈重信やその妻綾子が登場すると先月NHKが告知していましたが、大隈重信の妻綾子は、前述の通り、小栗上野介の従兄妹です。そのため、三野村利左衛門が亡くなった後、国子は大隈家に引き取られ、そこで養育されています。
綾子は、母が小栗忠高(小栗上野介の父)の妹であった関係で、幼い頃に兄とともに小栗家で6~7年育てられていたことがありました。その恩返しとして国子を養育したものと思われます。ここにも「報恩」がありました。

