栄一、慶喜に帰朝報告をする(「青天を衝け」144)
「青天を衝け」第26回の最後は、栄一が慶喜に拝謁して、その姿に驚きながらも基調報告を述べるシーンでした。私は、このシーンにも感動しました。
零落した慶喜をみた栄一の驚き、そして、元気のなかった慶喜が次第に笑みをうかべ元気になっていく姿。このシーンも創作かと思うほどの出来栄えでした。
しかし、この場面も史実です。そこで、今日は、栄一の慶喜への拝謁について書いていきます。
まず、栄一が「雨夜譚」で語っていることを下記に紹介しますが、「雨夜譚」では、栄一は、慶喜と拝謁した時の様子を詳しくは書いていません。
「さて東京と静岡とは、僅かの行程であるから、その月の20日過ぎに静岡へ到着しました。(中略)さて静岡着の後、直に大久保(※静岡藩中老 大久保一翁)に面会して、仏国滞在中の概略を述べて、民部公子の御書状を、同氏の手から前公へ執達の事(伝えること)を請い、公子の御伝言をも申述べた処が、大久保は逐一これを領承(了承)して、直に御聞に達しました。その頃前公(慶喜)には宝台院において御謹慎中にて、同所にて御逢(おあい)があるによりよって出頭しろという通知が来たから、静岡着の翌々日の夕方から宝台院に伺候(しこう)して、ゆるゆ前公(慶喜)に拝謁を遂げ、各国巡回中の実況から、公子仏国に御留学の御様子および東京において御申含めの事どもまで、落ちもなく言上して、そのまま旅宿に逗留して居た(後略)」
読んでお分かりのように、慶喜に拝謁したことだけが書いてあって、慶喜がどのような姿だったかは、全く書いてありません。
それでは、栄一はまったく拝謁の様子を語っていないのかというとそうではありません。昭和5年3月の「竜門雑誌第498号」【徳川慶喜公の知遇】の中で下記のように語っています。「青天を衝け」の場面は、この栄一の思い出に基づいて描いているのだろうと思いますので、「青天を衝け」の場面を思い出しながらお読みください。
「私は今もはっきりと印象に残っているが、帰朝した当時一度民部公子の御手紙を持参して静岡で慶喜公にお目通(めどおり)をした事がある、何でも夜であった。公の謹慎していられる宝台院というお寺へ行って一室でお待ちしていると行灯の傍へひょろりと誰か来た。誰か側近の方かと思ったら、その方が慶喜公であった、唯一人しょんぼりお坐(すわ)りになったのであった。その時ばかりは感極って哭(な)いた。『こんな情無いお姿を拝し申そうとは……何と申してよろしいか』と申上げると、慶喜公は『今日はそんな愚痴を聞くために会ったのではない。お前が民部の事について、仏蘭西(フランス)滞在中の報告に来たとの事であったから、それで会おうといって置いた筈だ』ととどめを刺すとでも言おうか、平然として言われた。誠に慶喜公はあんな場合には、人情があるのか無いのか、それとも感じがあるのか無いのかと思われる方である。それで私も『恐れ入りました、それでは何も申し上げますまい。だ御残念でございましょう』と言って、それから民部公子の御渡欧について、詳しく御話申して引下った次第である。」
「青天を衝け」の場面は、この通りであったように思います。
そして、拝謁を待つ間、拝謁の最初は、部屋も薄暗く慶喜の顔色も暗いものでしたが、栄一が昭武の様子を語り始めると次第に慶喜の顔にも笑顔が見えてきて、それに合わせるかのごとく、障子も明るくなり、室内には太陽の光も入り込み、部屋全体が明るさを増してきました。
元気のなかった慶喜が次第に笑顔を浮かべ元気になっていく草彅剛の演技が絶妙だったと思いますが、それだけでなく、部屋の明暗でも慶喜の心模様の変化を表した演出も素晴らしいと感じました。
ところで、細かくいうと、前述の栄一の思い出では、夕方に拝謁したという話でしたのに、部屋に陽光が入りこむのがおかしいということに気が付いた人もいるかとも思います。しかし、慶喜に拝謁したのが夕方だったというのは、栄一の記憶違いかもしれません。
栄一の当時の日記では、
「12月23日 曇
第十時(現在の午前10時)頃、宝台院へ罷(まかり)出る、拝謁仰せつけられ、公子より仰せ含の儀、洋洲事情等逐一申上る。海外にてこの顛覆(てんぷく)に遭遇し独力にて骨折(ほねおり)の段、御褒詞(ほうし:お褒めの言葉)くださる。」
と書いてありますので、実際は、午前中に拝謁したのだろうと思います。この日記の通りとすれば、陽光が部屋に入りこんでも不思議ではありません。なお、日記には、慶喜からお褒めの言葉もいただいたと書いてあります。
慶喜が謹慎した宝台院は、家康の側室で2代将軍秀忠の母でもあるお愛の方(西郷の局)の菩提寺という由緒あるお寺です。静岡駅から徒歩約10分の所にあります。
宝台院は、もともとは龍泉寺といい、永正4年(1507)開創された浄土宗のお寺です。
徳川家康が駿府を治めていた天正17(1589)年5月に、愛の方(西郷の局)が亡くなり、龍泉寺に葬られました。
寛永5年(1628)、大御所となっていた秀忠は、母の菩提を弔うため、現在の地に大伽藍を建て大法要を営みました。この時、寺名も、愛の方(西郷の局)の法名にちなむ「宝台院」が加わり、「金米山宝台院龍泉寺」となり、以来、「宝台院」と呼ばれるようになりました。下写真は宝台院の本堂です。宝台院は4年前の夏に訪ねました。

慶喜は、慶応4年(1868)7月19日に水戸を出発し、銚子から旧幕府軍艦蟠竜に乗って7月23日に清水港に上陸し、東海道を通ってその日の夕方宝台院に入りました。慶喜は、明治2年(1869)9月28日に謹慎が解かれるまでの1年2ヶ月余りを宝台院で暮らしました。
謹慎中は、慶喜は旧幕臣に会うことを極力避けていたそうですが、栄一は特別会うことが許されたそうです。栄一がそれだけ信頼されていたということでしょう。下写真は、宝台院の境内に設置されている「徳川慶喜公謹慎之地」の標柱と説明石碑です。


