尾高家、不幸が続く(「青天を衝け」135)
「青天を衝け」では、栄一が帰ってきて喜びにあふれる渋沢家が描かれていましたが、その一方で、千代の実家の尾高家では不幸が続いていました。
飯能戦争では、渋沢平九郎が亡くなりました。そして、母やへが栄一が血洗島に帰ってくる直前に亡くなり、さらに尾高家で療養していた長七郎が亡くなりました。
母やへと長七郎の死亡については、「雨夜譚」には全く書かれていません。
しかし、「デジタル版渋沢栄一伝」に収録されている「渋沢栄一伝稿本」の中に長七郎のことが書かれています。
「尾高長七郎は先生(渋沢栄一のこと)がなお仏国に滞在せる頃、嫌疑とけて赦(ゆる)され還(かえ)りしも時々精神錯乱の旧病発作するが故に、藍香監視の下に静養に力(つと)めたれども癒(い)えず、ために彰義隊にも振武軍にも加はることを得ず、先生の帰国にさきだちて逝(ゆ)けり。
長七郎は文武に秀でたるが中にも、剣道はその最も長ずる所にして、初は神道無念流の奥儀を極め、のち伊庭軍兵衛につきて学びしより、天禀の妙技益々神に入りて、上武の間並ぶ者なしと称せらる。すなわち道場を村内なる鹿島神社の傍(かたわら)に営みて、子弟に教授す。殊に慨世(がいせい)憂国の志厚くして、名声志士の間に聞えたる者なりしが、事志と違ひ、有為の資を抱きて空しく病に斃(たお)る。」
この頃の尾高家について最も詳しく書いてあるのが「ははその落葉」(穂積歌子著)です。「ははその落葉」には次のように書かれています。
「この頃の母の親族にはどうしだかわからないが、災難が続いて心細く思っていたが、父が帰ってくるという連絡がきて、母は大変喜んでいました。
尾高のお祖母さんは、父が故郷に帰ってくる日を待たないで、その冬の11月17日に突然病みついて亡くなってしまいました。
長七郎さんもかねてからの病気が重くなって、お祖母さんに続いて亡くなられました。その時伯父(尾高惇忠)は世を憚って前橋に住んでいる大川家に潜んでいました。
親戚の多い渋沢家・尾高家でも、このような時に役にたつ人がいないため、のお祖父さま(市郎右衛門)が野辺送りの事をはじめいろいろなことを処理しました。」
これを読むと、尾高惇忠は、飯能戦争で敗北したことから故郷にいることができず前橋に隠れ住んでいたようです。
尾高惇忠の妹みち子は川越藩松平家の剣術指南役大川平兵衛の息子大川修三に嫁いでいました。大川平兵衛が仕えていた川越藩松平家は、前橋に転封となっていました。そのため、大川平兵衛も前橋に転居していました。そうしたことから、尾高惇忠は前橋の大川家に潜んでいたのだと思います。
尾高家の大黒柱である尾高惇忠がいないなかで、母やへ、兄長七郎が相次いでなくなりました。
母やへは「ははその落葉」からすると11月17日です。
そして尾高長七郎が亡くなったのは、栄一が建てた表面に「東寧尾高弘忠之墓」(下写真)と刻まれた墓碑の側面に「明治元戊辰十一月十八日歿享年三十又一」と刻まれています。長七郎は母やへが亡くなった翌日に亡くなっています。 
尾高惇忠は、母と長七郎が亡くなった後、手計の実家に戻ってきたようです。
その頃の尾高惇忠の消息について、「新藍香伝」には書かれていませんので、どのようであったかはわかりません。しかし、「青天を衝け」で描かれていた惇忠のように憔悴しきっていたのではないでしょうか。
しかし、心配する必要はありません。明治3年には、「備前堀事件」という事件が起こり、その事件解決に尾高惇忠が大いに尽力することになります。その話が「青天を衝け」で取り上げられるかわかりませんが、取り上げられれば、その時に説明します。

