高松凌雲、箱館で敵味方なく治療(「青天を衝け」147)
「青天を衝け」では、渋沢喜作たちは、箱館で新政府軍と戦っています。
喜作が土方歳三に「松前から帰ったのか」と言っていましたし、土方歳三がそれに答えながら「これから蝦夷地平定の祝賀会がある」と言っていたので、明治元年12月の頃の設定だと思います。
そして、そこに細田善彦演ずる高松凌雲が登場し、渋沢喜作と土方歳三が、敵味方なく治療する様子に驚嘆し、高松凌雲は、「それをパリでもう一人の渋沢と学んだ」と答えていました。
高松凌雲は、ごく一部の人しか知らないと思いますが、箱館戦争で敵味方なく治療したことで、知る人ぞ知る人物です。その高松凌雲が「青天を衝け」で再び登場したので私は喜んでいます。そこで、今日は高松凌雲について書いていきます。
高松凌雲は、「青天を衝け」を見ている人は、栄一とともにパリに渡航した人物であることはご存知だと思います。
そして、パリの廃兵院で、傷病兵が国家のお金で治療を受けていることに感銘を受けたことも覚えているだろうと思います。これが前述の高松凌雲の言葉となっています。この廃兵院のことは既に書いてありますので、ご参考にしてください。
高松凌雲は、天保7年に、筑後国御原郡古飯村(現在の福岡県小郡市)の庄屋高松家の三男として生まれました。幼名権平,のち荘三郎といいました。3歳のうえの兄に古屋佐久左衛門がいます。
高松凌雲は、24才の時にて医学の道を志します。江戸で蘭方医石川桜所のもとで医学の修行をした後、大阪の緒方洪庵の適塾に入門しました。
慶応元年(1865)一橋家に仕官し、この時に高松凌雲と改名しています。従って、この頃、栄一は勘定組頭であり、高松凌雲は医師ですので、直接的な接触はあまりないだろうと思いますが、栄一とは、この頃に知り合っている可能性もあります。
慶応2年、徳川慶喜が将軍になったことから将軍徳川慶喜の奥詰医師を命ぜられました。
そして、慶応3年に、パリ万博に派遣された徳川昭武に随行してフランスに渡り、パリ万博終了後、昭武は諸国訪問に向かいましたが、高松凌雲もそれに随行しましたが、各国訪問が終了したあと、「神の館(あるいは神の家)」と呼ばれる医学校を兼ねたパリ市民病院に入学し、医術の研究を続けました。
しかし、翌年、戊辰戦争勃発の報せを受け、急遽帰国の途につきます。帰国後は榎本武揚と一緒に蝦夷地に向かいました。
そして、蝦夷地で、高松凌雲は榎本武揚から箱館病院の頭取を依頼され、全権を一任されました。ここで、高松凌雲は敵味方の別なく治療を行いました。これは、高松凌雲がパリで見た負傷して戦闘力のない者は敵味方の区別なく治療するという見聞に基づいた対処でした。
明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を行いました。その際に新政府軍が病院にも押し寄せてきました。その際、高松凌雲は、負傷者は敵対するものではないので、助命して欲しいと訴えました。この訴えを聞いた薩摩藩隊長山下喜次郎は病院を離れる際、門前に大きな「薩州隊改め箱館病院」の木札を掲げることを認め、これで、箱館病院は新政府軍の攻撃から守られたといいます。
この箱館戦争での高松凌雲の活躍をメインに高松凌雲の一生を描いたのが吉村昭の「夜明けの雷鳴」です。
五稜郭開城後、高松凌雲は阿波藩預けとなりますが、翌年には罪を赦されます。
そこで、高松凌雲は、静岡藩に仕えたいと願いますが、パリに随行した徳川昭武が水戸藩主となっていたことから、昭武から水戸藩に仕えて欲しいとの強い希望があったため水戸藩に仕えることとなります。しかし、水戸藩は、高松凌雲を拘束することなく、時々、藩邸に出張すればよいという扱いでした。
そこで浅草に医院を開きますが、しばらくして、新政府の兵部省に出仕して軍医頭となっていた松本良順から新政府への出仕も勧められますが、その要請を断りました。
その後も、土佐県や福山県からの要請も断り、さらに後の日本赤十字社につながる博愛社を設立した佐野常民からも強い要請がありましたが、純粋に民間で医療を行いたいとの考えから、佐野からの要請も断わりました。
明治12年、貧民救療事業を行う「同愛社」を設立しました。
同愛社は民間社会福祉事業の先駆とされています。
この時、栄一は、高松凌雲に協力しています。「夜明けの雷鳴」では次のように書いています。
「その年の八月、東京府庁から金杯一個が贈られ、翌十六年九月には明治天皇より金千円が下賜ぎれた。これによって同愛社は社会的に認められたことになり、凌雲たちは、寄附を各方面に求め、支援者は増した。その中に渋沢栄一もいた。(中略)
同愛社のことを知った渋沢は、すすんで凌雲に寄金を申出て凌雲を感激させた。バリで医学校兼病院の「神の館」に通学を許してくれたのは、渋沢の配慮によるところ大で、凌雲と渋沢の親交が復活した。凌雲は、渋沢に慈恵社員幹事になることを要講し、渋沢は快諾した。」
明治45年4月27日に上野精養軒で高松凌雲の喜寿を祝う祝宴が開催されました。栄一は、この祝宴の発起人の一人であり、祝辞も述べています。
そして、高松凌雲は、大正5年東京の自邸で81才の生涯を閉じました。高松凌雲は、自宅近くの谷中霊園に静かに眠っています。(下写真は高松凌雲のお墓です。)