栄一、三野村利左衛門に金への交換をお願いする(「青天を衝け」150)
「青天を衝け」第27回には、三野村利左衛門が再び登場し、栄一が太政官札を金に交換するようお願いしていました。三野村利左衛門とは栄一とは関係が深いので、これからもしばしば登場することになると思います。
栄一が、三野村利左衛門と初めて会ったのは、「青天を衝け」25回で描かれたように、栄一が帰国した早々のことです。
栄一は、その当時のことを後年語っていて、その内容が三井文庫が所蔵している「渋沢子爵三野村利左衛門関係談話筆記」に残されています。
「三野村利左衛門伝」(三野村清一郎著 三野村合名会社発行、ただし非売品)にも引用されていますので、そこから引用します。

「(前略)日本にちょうど十一月の初め、その日はハツキリと覚えておりませぬが帰って参りました、この時に三野村さんにお目にかかったのがそもそもの始めであります。(中略。帰国後の荷物の整理を頼んだ)その人は故利左衛門さんをひどく推奨しておりました。色々人物もございますが、あなた方が御交際なすって必ず利益になる人はあぁいう人でありましょうということを言われて初めて利左衛門さんに会ったのでございます。(三野村利左衛門とその人は)どういう縁故であったか(わかりませんが、)。自分(栄一)はお目に掛りたいということを申してその榎本六兵衛、大六の番頭さんの深川の家の二階でお目に掛ったのを覚えております。(中略)(栄一が)「会ひたい」、「それでは私が紹介しましょう」ということで会った。(三野村利左衛門が)「お前は一体どういう人か」(と聞いたので)、私の身の成行等をお話したことを覚えております。これはただただその時は一時(いっとき)の会見だけに過ぎませぬ。しかし、そういう縁故から私がお目に掛ったというのがまず第一にあるのであります、それはちょうど明治元年の冬のことでありました、フランスから帰る早早であつた。」
栄一は、帰国早々に、荷物の整理を手伝ってくれた深川の人から紹介されて深川の家で三野村利左衛門に会ったと述べています。
「青天を衝け」での描写は、ほとんど栄一が語った思い出と同じ雰囲気で描かれていたように思います。
三野村利左衛門は、以前書いたように、勘定奉行小栗上野介と昵懇の仲であったので、三井への御用金の減額を働きかけで、それがうまくいったことから、三井からのたっての頼みで、三井の大番頭となりました。
王政復古の大号令が出ても明治新政府の財政基盤は脆弱なものでした。
そのため、明治新政府は12月26日に三井に御用金の要請をしてきました。これに対して三井は12月晦日に、新政府に一千両の献金を行いました。そして翌年正月19日に、小野組・島田組とともに一万両の献金を行いました。これによって、三井は新政府側に旗幟を鮮明にしたことになります。
しかし、引き続き、新政府の財政はひっ迫したため、太政官札を発行しました。
大阪は、手形の流通もあったため、太政官札は比較的早く流通しましたが、江戸では、現金商売が主流であったことと新政府に対する反発もあって、太政官札はあまり流通しませんでした。そうした状況の中で、三野村利左衛門は、太政官札の流通を拡大する策の献策をおこなったため、徐々に江戸でも太政官札が流通するようになってきました。「三野村利左衛門伝」によれば、この建言は。東京に東京の大商人を結集して商法司という組織をつくり、これにより太政官札を流通させようというものだったそうです。
こうしたことから、太政官札の仕組みや流通について三野村利左衛門は熟達していました。
おそらくそうした背景があってのことだと思いますが、栄一は商法会所の立ち上げに際して、太政官札の現金への交換を三野村利左衛門に頼んだでしょう。
2回目の三野村利左衛門との会合について、栄一は、「雨夜譚」では、全く触れていません。
しかし、前述の「渋沢子爵三野村利左衛門関係談話筆記」の中で、次のように語っています。長くなりますが、これを読むと「青天を衝け」の場面が良く理解できると思います。
「商法会所となづけまして、いよいよ着手したのであります。所が石高拝借は太政官札、それで物を買うということは誠に買にくい、どうもそれ(太政官札)が流通が悪い、田舎ではなおさら悪い、これについては大分困りまして、それからついに三野村君にこれは相談するほかないというので、二月でありましたか、東京へ出て来まして、その時には大六の番頭の手でお目にかかっておった、知りあいになっておったのでありますから、お目に掛りたいということを申し入れて、お目に掛って、太政官札をどうにかして引き替える方法はないか、それで品物を買いたいということで、しかしなかなかこれはぐあいよくいかない、で鰊粕と油粕を買う、東京で肥料を仕入れて行こう、それから大阪で米を買うというような、そういうようなことで何分都合がつかないからどうしたものだらうと、これについてご相談しました。
(これに対して三野村利左衛門が)「一体あなたは何をする」というから、「私はこういう企てをしている」、「そうか、しかいそれはうまく行くかな、あなたは素人じゃないか」、「素人だってできぬことはあるまい。一体日本の商売の仕方が間違っている」とか、私は生半可(なまはんか)であったが講釈等をしまして、「見込ではそうであるが、そんな都合がうまく行くものか、しかしそれはそうとしても太政官札を正金に替えるということだけは心配しましょう」(と言ってくれた)、何んでもどの位であったか、ほとんど三野村君の手で替えてしまいました、大分廉(やす)かった。二割位は廉かった。「段々流通がよくなって来るでしょうが、今はこの位なら行きます」(と三野村利左衛門がいうので)、それで正金にして買った、それは札(さつ)で、今日では札でも構いませぬが、地方ではそういう風で、そういうことについてお話をし、かつそういう働きをお願いしたり色々御懇意にしたのが第二の会見であります。」
長い引用を最後まで読んでいただきありがとうございました。
「青天を衝け」でも2割程安いと言っていたりしていますので、おおむこの栄一の思い出をベースにしているんだと思います。
なお、「青天を衝け」の紹介では、三野村利左衛門を食えない商人とされていますが、実際の三野村利左衛門はそんな人物ではないと私は思っています。

