伊達宗城、栄一の出仕を推薦する。(「青天を衝け」156)
栄一は、大蔵省に出仕することになりましたが、栄一自身も、誰が推薦してくれたんだろうと不思議に思ったようです。
「雨夜譚」に「表面上は歴然たる旧幕臣で新政府からみれば正反対にいる身分、殊に今日の朝廷には一人の知己もない身の上であるから、かたがたもって今日の任命は何人の推薦ということが詳ならぬ訳であった」と書いています。
そのため、栄一自身、ずぅ~と気にしていたのでしょう。出仕してからしばらくすると、誰が推薦したか分かりました。「雨夜譚」には、前述の部分に続いて「後に聞けば、全く大蔵卿の伊達正二位がかつて自分の名を承知して居られたのと、その頃別に面識はなかったが郷純造という人もどこでか自分の事を聞き及んでいた処から、つまりこの任命の事に及んだのであったということが分りました。」と書いてあります。
つまり、推薦者が二人いたようです。その一人は、大蔵卿の伊達宗城(むねなり)です。旧幕府時代は宇和島藩主だった人物です。そうして、もう一人は郷準造で、元幕臣です。下写真は伊達宗のお墓です。渋沢栄一のお墓からあまり遠くない谷中霊園の一画に眠っています。

伊達宗城は、旗本山口相模守直勝の子として江戸に生まれ、文政12年(1829))宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、弘化1年(1844)に家督を継ぎました。襲封すると藩政改革に努めて殖産興業に力を注ぐとともに高野長英や大村益次郎を招いて軍制改革も進め、四賢侯の一人に数えられました。
将軍継嗣問題では、慶喜擁立の努力し、8月18日の政変の後の後設置された参予会議では、その一員に選ばれています。
明治維新後は、外国事務総督、外国官知事(現在の外務大臣)を勤め、新政府発足当初の外交責任者を務めていました。
栄一は、このころ、パリにいて、徳川昭武の傍に仕えていました。パリにいる徳川昭武たち一行の動向をつかんでいたのは新政府の外国官(現在の外務省)です。徳川昭武に対する帰国命令は伊達宗城の名前で発せられています。
こうしたことから、伊達宗城自身も渋沢栄一の仕事振りに着目したものと思います。
そういえば、「青天を衝け」で栄一の仕事振りを伝える新聞記事が話題になっていました。それは、「明治新聞」の明治2年7月25日の記事だと思います。
その記事の内容が「渋沢栄一 近代の創造」に載っていますので、引用させていただきます。
「静岡〈駿府を云〉よりの書中に徳川民部大輔殿に付添い帰朝の士(さむらい)の内に渋沢篤太夫と申(す)者フランス国に滞留の中(うち)器物交易のため自分の手元へ二万両の利分をたくわえたり、このほかに反物(たんもの)買入、かつ彼地にて売残しの器物を日本へ持帰り候。これらはわずかばかりのことなれども先頃横浜において売払代金また二万両余にあいなり。前書の貯金とあわせて四万両余の金は全く自分の才覚にて得たる事に相違なし。しかるに民部大殿手元へは暇を乞い、静岡へ罷(まかり)越(こし)、中将様へ御奉公いたし右の四万両は駿州(すんしう)一円の難渋人へ施(ほどこ)しとして分配し自分は一銭をも見につけずフランケット一枚にて勤方勉励致し候よし。これ誠にその君へ忠節他事なき所なるべしという」
「青天を衝け」第27回で大隈重信や伊藤博文、五代友厚などが話題にしていた内容ですね。
そして、山本七平も「彼を召し出した一因は明治二年七月二十五日の「明治新聞」 の記事であろう。内容は必ずしも正確ではないが、この記事が人びとに彼を認識させ (郷純造の場合)、また思い出させた (伊達正二位の場合)と思われる」と書いています。
伊達宗城のほか、栄一を出仕させるよう推薦したのは郷純造です。
大隈重信は、「デジタル版渋沢栄一伝記資料」に収録されている「実業之日本第12巻」の「渋沢男爵が初めて世に出でし当時の大元気」の中で次のように語っています。
「我輩が大蔵省に入って人材を求めて居ると、郷純造君(誠之助男爵の父)が洋行帰りの渋沢君を推薦して来た。
郷氏はなかなか人物を見る眼があった。氏の薦めて来た人物は皆よかった。前島君(密男爵)もその一人である。(後略)」
郷純造は、美濃国の農家に生まれ、江戸に上り、武士に仕えた後、慶応2年には御家人の株を譲り受け、念願の幕臣となりました。明治になると、郷純造は理財面での処理能力を買われ、新政府の会計局組頭を任ぜられました。のちに大蔵省事務次官まで栄進しています。
渋沢栄一亡き後、東京電燈会長、東京商工会議所会頭などを勤め、財界のリーダーとして活躍した郷誠之助は郷純造の次男です。

