尾高惇忠、新政府に出仕する(「青天を衝け」159)
「青天を衝け」第28回では、栄一の改正掛での活躍ぶりが描かれていました。
そこで、具体的なテーマとして取り上げられていたのが、郵便制度の発足と富岡製糸場の設立でした。郵便制度はこの回で発足までいきましたが、富岡製糸場のほうは尾高惇忠が責任者として登用されるところまででした。
郵便制度については後日詳しく書きますので、今日は富岡製糸場の設立について書いてみます。
開国後の日本の最大の輸出品は、生糸でした。当時、ヨーロッパにおいて微粒子病という蚕の伝染病が蔓延し、フランスをはじめとする主要養蚕国が大打撃をうけました。そのため、ヨーロッパ各国は、日本産の生糸を求めたため、日本から生糸が大量に輸出されました。
こうした過大な需要により、生糸であればどんな生糸でも売れるという情況となり、生糸の粗製濫造や悪質な業者の横行が蔓延しました。そのため、外国の日本製の生糸の評判が悪くなるとともに、クレームが新政府に持ち込まれました。
「青天を衝け」でも、大隈重信が外国からのクレームが多くて困ったと言っていましたが、こうした背景があります。
そこで、明治政府は、生糸の品質向上を図る対策が必要となります。しかし、当時の政府の人たちは、もともと武士ですし、全く養蚕の経験がありませんので、生糸に関する知識は全くありませんでした。
大隈重信が栄一の説明を聞いて驚く場面がありましたが、実際まったくその通りだったと思います。
新政府の中で、養蚕の経験もあり、生糸の知識があるのは、栄一だけでした。そこで、栄一は担当の事務主任となりました。なお、伊藤博文も一緒に担当者となっています。
栄一が、改正掛での新製糸場設立の責任者でしたが、富岡製糸場の設立を実際に担当したのは、尾高惇忠です。
尾高惇忠は栄一にとって師であり、同志であり、従兄であり、義兄であるという非常に深い関係があります。そのため、栄一の推薦で富岡製糸場の設立の担当者になったと思う方が多いと思います。もちろん、栄一の知人であることは影響したと思いますが、実際に、尾高惇忠の政府に呼んだのは玉乃世履でした。それには次のような事情がありました。
尾高惇忠は、飯能戦争で敗北して上州に潜伏した後、故郷の下手計村に戻ってきていました。
その頃、備前堀事件と呼ばれる事件が下手計村周辺の村々で起こりました。
備前堀とは、現在は正式には「備前渠(びぜんきょ)用水路」と呼ばれていますが、利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市を流れ、利根川右岸の水田に灌漑用水を供給する延長約23kmの農業用水路です。
江戸時代の伊奈備前守忠次により開削された用水路で、伊奈備前守の官名から「備前堀」の愛称で親しまれています。
下写真は現在の備前堀(備前渠用水路)です。中央の鉄橋は重要文化財「備前渠(びぜんきょ)鉄橋」で、深谷駅と日本煉瓦製造㈱の工場をつないでいた煉瓦輸送用線路が備前渠用水路を渡る鉄橋です。

この備前堀の取水口の変更するため、新たな取水口を建設すると岩鼻県(当時、群馬県内にあった県)が明治2年に突然決定しました。
これに対して、備前堀周辺の農民たちが反対運動をおこしました。
この運動のリーダーとなったのが尾高惇忠でした。
この備前堀事件については、「新藍香伝」にも書いてありますが、幸田露伴の「渋沢栄一伝」が読みやすいので、こちらを基に書いてみます。
備前堀の取水口の変更に反対する農民たちが暴動を起こしてまずいと考えた尾高惇忠は関係十四ケ村の村民の署名を取って、東京へ出て民部省に訴えでました。そこで、民部省は係員を県庁にも派出し、民間にも出して調べ、尾高惇忠ら代表三人を本省にも召して調べました。尾高惇忠は、備前堀の最初からの変遷、利害、県吏の妄断・脅迫、村民の憂慮・恐怖・怒りなどをしっかりと説明しました。
この話を聞いたのが、「青天を衝け」にも登場した玉乃世履でした。玉乃世履は、訴状を読み、尾高惇忠を見て、これだけの人材を民間に埋もれさせておくのはもったいないので民部省に出仕させようと考えました。
尾高惇忠は、この出京に際して、栄一の屋敷に仮住まいしていました。そのため自分の姓名の肩書に渋沢租税正厄介(やっかい)と書きました。厄介とは当時の語で、東京ではそこに仮にそこに住んでいるという意味でした。それを玉乃世履が見つけました。
以下、幸田露伴の「渋沢栄一伝」から引用します。
「そこで玉乃世履は栄一に尾高某は何様(どう)いう者だと間うた。栄一は有り体(てい)に答えた。玉乃は訴訟事件判定の前に新五郎を民部省監督権少佐(ごんのしょうさ)に任じ、聴訟・建白の二つの掛を担当させた。昨日の民間訴訟人は今日は中央政府の判官(裁判官の意味)になって終った。事件は合理的に捌(さば)かれ、新計画は停止されて、平和に結局した。」
こうした経緯があって、尾高惇忠は民部省に出仕しました。つまり、栄一の推薦ではなく、玉乃世履のルートで民部省に出仕したのです。
「青天を衝け」後半で、玉乃世履が、いきなり尾高惇忠の出仕を栄一に告げていましたが、こうした経緯が省略されていたので、戸惑った人も多かったのではないでしょうか。
「青天を衝け」では、尾高惇忠が、栄一の新政府への仕官を聞いて怒りを見せたり、栄一の決意を聞き、また出仕を勧められて悩む姿が描かれていました。
こうした出来事があったかどうかはわかりませんが、栄一が仕官していたことは尾高惇忠が政府に出仕するに際して、必ず背を押しただろうと思います。
こうして尾高惇忠が民部省に出仕していましたので、乃世履、渋沢栄一、杉浦譲、尾高惇忠、中村祐興らとともに新たな製糸場の設立の事務主任に尾高惇忠も任命されました。
「富岡製糸場史」には次のように書かれています。ただしカタカナを平仮名に替えるなど読みやすいように修正しています。
「閏十月七日製糸場建築のため、「ブリユーナ」雇入の条約(契約のこと)、民部省において全く成る。この日その事務の主任を命ぜられたる者は、民部権大丞玉乃世履、地理兼駅逓権正杉浦譲、庶務少佑尾高惇忠、大歳少丞渋沢栄一、監督正中村祐興なり。けだし(この)事地方(じかた)に係るをもって民部省官吏これを管(管理か?)し、大蔵省官吏これを輔佐す。」
「ブリューナ」は「青天を衝け」にも登場していましたが、富岡製糸場の設立運営に大きな役割を果たしたフランス人です。慶応3年(1867)にフランス軍事教官団の一員として幕府にまねかれ来日し、明治になって政府のお雇い外国人となっていたデュブスケが推薦しました。
この後、尾高惇忠は、製糸場の設置場所の選定・建設、さらに、初代の製糸場長として女工の募集等に活躍することになりますが、「青天を衝け」で近いうちに描かれると思いますので、この時に改めて説明します。

