杉浦譲、郵便制度を発足させる。(「青天を衝け」161)
郵便制度を立案した前島密がイギリスに派遣されることとなり、その後任として、杉浦譲は明治3年6月17日に駅逓権正を命じられ、郵便制度発足の指揮をとりました。そこで、今日は、郵便制度発足の功労者杉浦譲について書いていきます。
前島密は自分の手で郵便制度を発足させようとしていたのに、突然、イギリス行きを命じられて驚くとともにがっかりしたと思いますが、後任を命じられた杉浦譲も驚いたと思います。
杉浦譲がどう思ったかは残されていませんが、その時の前島密の思い出が「郵便創業談」の中で語られています。
「そこで私はその成業にもとづいて実施の準備をしておりましたが、この月17日に西洋行の命をこうむりましたから実施第一番の事務は杉浦譲氏の担任となった。その時杉浦氏は、今図らず足下に代って、帝国郵便最初の実施者たる栄誉の任に上ったけれども、これはただ権(か)りに代(かわ)りを初(はじ)めるのであるから、足下(貴方)の成案に一字一句の増減もしないで本務を執って、足下の帰朝を待とうと公言せられたのです」
ここで、杉浦譲は一字一句たりとも変えずに前島密の案どおり実施すると言ったとされていますが、実施にあたっては、前島密の案だけで発足できるわけではありません。当然、状況に応じて、前島密が作成した案の変更もあったでしょうし、新たに考案・検討すべき事項もあったことだと思います。
前島密が立案した郵便制度は、9月に太政官で決定されましたので、東京郵便役所や大阪郵便役所の設置は勿論のこと、書状集箱(現在のポスト)の設置・郵便切手の製造などの細かい実務の検討・実施についての決裁は、杉浦譲が行っています。
現在、私たちがポストと呼んでいるいるものは、当時は書状集箱(あつめばこ)と呼ばれ、東京には、日本橋四日市、両国橋西、筋違橋御門外、浅草観音前、赤羽根橋、赤坂御門外、牛込御門外、京橋、永代橋、芝神明前、四谷御門外に設置されました。(「駅逓正杉浦譲伝」記載の「杉浦家記」《杉浦家の日記》より)
10月には、書状箱、運送用の書状通箱などの作成を指示し、11月には郵便切手の手配を行っています。郵便切手は、渋沢栄一がフランスから持ち帰ったフランス切手を参考に作成されました。
また、東京郵便役所は、日本橋四日市の旧幕府の魚役所跡に設置され,駅逓司も、丸の内からここに移転してきました。京都と大阪にもそれぞれ郵便役所が設置されました。東京郵便役所が設置されたのは、現在の日本橋郵便局の地です。入り口に「郵便発祥の地」と刻まれたプレートが埋め込まれています。

こうした準備が進み、いよいよ明治4年3月1日(太陽暦4月20日)郵便制度が発足し、午前2時に大阪から、そして午前4時には東京から第一便が出発しました。大阪から出発した便は、東京に3月3日の午後2時に到着しました。
当初の東京役所での取り扱いは1日134通、2日115通だったそうです。
「青天を衝け」で、栄一と杉浦譲が手紙を投函する場面がありました。そして、その返事を待ち望んでいた二人のところに返事が届き大喜びする場面がありました。あの場面は、実話です。3月1日杉浦譲が静岡にいる実弟の日下楨二郎に書状を送りましたが、その返事が6日の午前10時到着しています。(「初代駅逓正杉浦譲伝」より)
しかし、「青天を衝け」で描かれていたように栄一が慶喜に書状を出したかどうかはハッキリしません。
杉浦譲は、3月9日に翌日礼服を着用して参朝するよう命令があり、体調不十分であったため12日に参朝したところ、駅逓正(えきていのかみ)に昇格との辞令を受け取りました。郵便制度発足にあたっての尽力が高く評価され杉浦譲は初代駅逓正となったのでした。
前島密は日本における郵便制度を確立した人物として有名で「日本郵便の父」と呼ばれるほどですが、郵便制度発足のための尽力した杉浦譲の功績も忘れてはならないと思います。その点、「青天を衝け」で郵便制度発足のため尽力する姿が丁寧に描かれていて、多くの人が杉浦譲の功績を認識されたのではないでしょうか。
杉浦譲は、このほか、富岡製糸場設立の担当となり、富岡製糸場設立のためににも奔走しています。「青天を衝け」では近いうちに富岡製糸場に設立が描かれると思います。その際に、杉浦譲が担当として登場するかもしれませんので、その際には、改めて、杉浦譲に触れさせていただきます。
杉浦譲について過去に書いた記事が二つありますので、ご参考にしてください。
「栄一の友人、杉浦愛蔵(譲)」
「杉浦愛蔵(譲)、埋もれた郵便制度確立の功績」

