前島密、「郵便」という名称を定める(「青天を衝け」162)
「青天を衝け」第29回で、郵便を始めるにあたって、どのような名称にするか栄一と前島密、杉浦譲が協議する場面がありました。
「青天を衝け」では、前島密が「郵」の字を使用しようと言い出し、それを受けて杉浦譲が「郵便」という言葉にしようと提案するというストーリでした。
一般に「郵便」という言葉は、前島密が使い始めたと言われています。中には、「郵便」は前島密の造語であると書いたものもあります。しかし、これは誤りのようです。人物叢書「前島密」(山口修著)には「時として『郵便』は前島密の造語と誤解している向きもあるが決してそうではない」と書いてあります。
「青天を衝け」では「郵」とは「宿場」という意味だと言っていました。「郵」という字を手元にある辞書「漢辞海」で引くと、「宿駅」または「飛脚」という意味だと書いてあります。
人物叢書「前島密」(山口修著)では、「『郵』とは元来『宿場』のことであった。(中略)中国では、公用文書を騎馬で継立てることを駅逓、徒歩で継立てることを郵逓、と呼ぶようになった。この『郵』の字を用い、江戸時代の漢学者などは、飛脚便のことを『郵便』とも呼んだ。それを密が採用したわけである。」と書かれています。つまり、「郵便」という言葉は、江戸時代から使用されていたようです。
前島密は、郵便という名称を定めたことを郵便制度を建議する中で苦心したことの一つとして自叙伝「鴻爪痕」で次のように書いています。
「その一は郵便の名称を定めたる事なり。凡そ名称は、名実相具しかつ簡単なるを要するを以て数次考按(考案)せしもその要を得ず、故に漢名の如き嫌われども、これに郵便と命名せしに、飛脚便と称すべしとの説、甚(はなは)だ有力なりき。(中略)かくて飛脚便の名称を排斥したれども、洋行より帰りて太政官の布告を見れば、余の用いたる郵便の名称は変更せられて飛脚便とせられたり。これにおいて余は、郵便は行政上の大機関たる所以(ゆえん)と西洋各国における通信の実況とを具陳(ぐちん:詳しく述べること)し、郵便と称せんことを主張せしに、郵便の名称は確固不動のものたるに至れり。」
「青天を衝け」では、最初から「郵便」でしたが、史実では、ここに書いてあるように、明治4年3月1日の郵便制度発足の時には、「郵便」ではなく「飛脚便」という名前だったようです。そこで、前島密はイギリスから帰国してから、「郵便」とするよう強硬に主張して「郵便」という名称となりました。そして、広く周知されるようになりました。
「郵便切手」という言葉を定めたのも前島密です。前述の自叙伝の中で苦心した二つ目に「郵便切手」という名称を定めたことを挙げています。
そして、切手という言葉は「商業上においてすでに用いられて」いて、多くの人が知っていました。そのため、「郵便切手」という名称にしたと書いています。
郵便制度を検討した当初は、切手の再使用をどう防ぐかということが検討課題でしたが、前島密たちには消印というアイデアはありませんでした。そこで、当初は切手をはがすために水で濡らしたら切手そのものが使用できなくなるような用紙で切手を印刷するようにしようと考えたりしましたが、結論が出ませんでした。
しかし、前島密がアメリカ経由で渡英するため乗船した船は、偶然にも郵便船でした。その船中で、前島密は、欧米では消印という方法があることを知り、早速、前島密は、このことを船便で日本に知らせました。こうして、郵便制度発足時から消印が利用されるようになりました。
前島密は、この郵便船の中での出来事を次のように語っています。
「自分の乗っている船が郵便船である事を知ったので、船長共外と郵使の事の話をして消印の事が分り、それと同時に以前長崎で米国宣敎師から見せられた切手に消印のあった事も思い出したので、疑問一時に氷解して実に愉快を覺えたです。それからその日直にこの事を手紙に書いて洋中で行逢った米国の郵便船に託して杉浦駅逓正に通知しました。」
「青天を衝け」でも郵便制度発足の最初から「検印済」と押されていましたね。

