栄一の父市郎右衛門、死す(「青天を衝け」164)
「青天を衝け」第30回も、大阪出張で五代友厚や大内くにとの出会い、廃藩置県、大久保利通との衝突など盛沢山のお話でした。これらの事柄については後日書いていきます。その中で、今日は、今回のタイトルともなっている父市郎右衛門の死去について書いていきます。
栄一が、大阪に出張して、ちょうど東京に帰った明治4年11月15日その晩に、その月13日に父市郎右衛門が突然に大病となったという連絡の急飛脚がやって来ました。栄一は、すぐにも血洗島に帰りたかったのですが、大阪出張の復命がまだであったので、翌朝、井上馨に面会し許可をえてから帰りました。
このあたりについては。「青天を衝け」では省略してありましたが、「雨夜譚」に詳しく書いてありますので、許可をもらうところから引用します。
「翌日早朝に井上に逢って大阪の模様を陳述して、直に親病気看護のため帰省の許可を得て、即時に東京を出発し、大雨を凌いで行程を急がせたが、中山道の深谷宿までいったらその夜の九時頃になった。それから深谷の杉田で夜食をして、旧里の家へ着したのは夜の十一時過であった。父の病気は十三日の夜から発して一時は脳の刺撃が強くてほとんど人事不省の大患であったというが、この夜自分が着した頃は大いに容体が回復して気力もいささか生じた様子で、自分が看護のために来たのをすこぶる喜はれました。」
このように、父の病気は大病で一時はほとんど人事不省でしたが、栄一が到着した頃はだいぶ容体が回復し、気力も少しもとに戻った様子で、栄一が看護のために来たのを大変喜びました。
さて、下記ブログ参照で、市郎右衛門の律儀さ・頑固さを書いておきましたが、その律義さは、市郎右衛門が危篤になった際にも現れていました。
栄一が、やってくると聞いた市郎右衛門は、門前に盛砂を準備させて栄一を迎えていたのです。このことは「雨夜譚」には書かれていないせいか「青天を衝け」でも描かれていませんでしたが、穂積歌子の「ははその落葉」に書かれていますので紹介しておきます。
「その夜更(ふ)けて(栄一が)中の家(なかんち)に到着されたが、門前に砂を盛り、番手桶を据えて親族の人々がうやうやしく出迎えたのて、父上(栄一のこと)は皆に向って、「父上が御重病の折柄で用が多かろうのに、こんな設備をして誰を迎えようとするのか」と咎(とが)められると、祖母上(えいのこと)が「これはあなたが來られることを聞かれて、あの人を昔の栄治郎と思ってはいけない朝廷に御仕えしている官人だから、親族だと思って簡單にして礼を失うてはならぬと、厳しくおっしゃり、盛砂の事など御自分で指図なさるから、御心安めにとかようにしたのです」とおっしゃるのて、物堅い御気性が常に変られぬ事がまず心丈夫に思われたそうである。祖父上(市郎右衛門のこと)は父上が来られたのを非常に喜ばれて、御気分がよさそうに見えられたから、この分では段々快方に向はれるかと猶も医療に力を尽された甲斐もなく、十八日頃から又御重態になられ、同月二十二日終(つい)に御逝去なされ、御享年六十三歳てあらせられた。母上は私と乳呑児の糸子をつれて、父上より三日ばかり遅れて鄕里に向われた。その頃はまだ汽車は勿論、馬車人力車さえもなかったので、ひたすら駕籠を急がしたが、道ははかどらす大宮に一泊して漸(ようや)く中の家に着いた頃は、祖父上は人事不省になられた後であったのは口惜しいことであった。」
市郎右衛門は、自分が危篤の時であっても、朝臣(朝廷の臣下)となった人は、たとえ息子であってもおろそかにしてはならないという律義さで迎えさせています。ここに市郎右衛門の市郎右衛門らしさがあったようです。
市郎右衛門は、栄一たちの看病の甲斐なく「ははその落葉」に書いてある通り、11月22日に亡くなりました。享年63歳でした。
市郎右衛門の墓は、「青天を衝け」紀行でも紹介されていたように、「中の家(なかんち)」の門前にある渋沢家の墓所に眠っています。法名は晩香院藍田青於居士です。(下写真)
市郎右衛門が亡くなった翌年、栄一は、忙しくてなかなか血洗島に墓参りに行かれないことから、谷中に招魂の碑を建立しています。
この碑は、現在は、谷中の渋沢家の墓所から、深谷血洗島の「中の家(なかんち)」の屋敷内に移転されています。(下写真)
また、栄一が文久3年に高崎城乗っ取り計画を中止した後、京都に出奔したため、「中の家(なかんち)」は相続者がいませんでした。そこで、栄一は、市郎右衛門に妹ていに養子をもらうように説得しました。しかし、市郎右衛門は栄一に任せると言いました。そこで栄一は、かねて考えていた従弟の須永才三郎を妹ていの婿に迎えるようお願いし、市郎右衛門も了解したので、市郎右衛門の葬儀のあとお披露目を行いました。才三郎は、渋沢家を継ぐにあたり名を市郎と改め、「中の家(なかんち)」をていとともに守りました。
「青天を衝け」では、市郎右衛門からていの婿が決まったと言っていましたが、「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」に収録されている「渋沢栄一伝稿本」に基づいて書くと以上の通りです。
現在の「中の家(なかんち)」(下写真)は、ていと市郎により明治28年に建築されたものです。
中の家(なかんち)については、今年の年初に詳しく紹介しています。ご興味がありましたら、下記記事もご覧ください。