栄一、井上馨とともに廃藩置県のため奮闘する(「青天を衝け」165)
「青天を衝け」第30回では、廃藩置県のこともかなり多くの時間を割いて詳しく描かれていました。
明治新政府が中央集権化を達成するために実施されたのが「廃藩置県」でした。
明治2年1月20日~6月にかけて政府は全藩主から土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させました。これが「版籍奉還」です。しかし、藩主は知藩事という名で従来の領地の治政をそのまま国から任されていました。そのため、より強力な中央集権化が必要とされ、廃藩置県の実施が検討されてきました。
その実施のためには、軍事力も必要ということで鹿児島に戻っていた西郷隆盛も政府に呼び戻されることになります。ここの部分は「青天を衝け」でも描かれていたように、西郷隆盛と島津久光の説得のため、大久保利通だけでなく岩倉具視が勅使として出向きました。こうして、西郷隆盛が上京してきましたが、それでも、廃藩置県の実施はなかなか進みませんでした。
こうした膠着状態を打開に一役買ったのが、井上馨でした。
井上馨の伝記「世外井上公伝」や「世外公事歴 維新財政談」に、その時の様子が書かれています。特に「世外公事歴 維新財政談」は座談形式ですので読んでおもしろいですが、いずれも経緯については長文ですので、簡単に経緯を書きます。
井上馨の屋敷に、長州藩出身の鳥尾小弥太と野村靖がやってきました。二人は、まず同じ長州出身の山県有朋と会い、廃藩置県の実施を相談したところ山県有朋はぜひやらなければならないが、木戸孝允を説得するためには、井上馨の協力が必要と言ったので、二人は井上馨のところにやってきました。二人は、井上馨が反対したら刺し違える覚悟でやってきましたが、井上馨は、もちろん廃藩置県に賛成で、井上馨が木戸孝允を説得するから、二人は大久保利通と西郷隆盛を説得しろと伝えました。こうして、薩長両藩出身者による廃藩置県の打ち合わせ会議が7月9日、木戸孝允の屋敷で開かれました。
この席で、井上馨は、①反対があったら軍事力でやっつける②公卿から異論が出ても断固実行すること③一日も早く断行することなどを主張した後で、藩札の処理について次のように主張したと「世外井上公伝」に書かれています。
「そうして藩札の始末ぢゃ。此奴がドシドシ入って来た所が何程歳人があっても何もならぬ。で是は廃藩置県の発令の日の相場をもって、おって太政官札と引換へる。こういう命令を出してください。それだけは是非しておいてくれ」と。
(下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載しました。)

これは、栄一も大変苦労したようです、「雨夜譚」には次のように書かれています。
「廃藩置県という政略上の大問題が起って、それがため朝野の間に議論が余程喧(かまび)しかったが、遂に七月の中旬に至って此の事が決定して、全国へ布告になりました。(中略)さて此の布告の発する場合に際して、もっとも注意を要する一事は、その頃諸藩に行はれていた藩札の引換法に関する布達である。今此の廃藩の布告が既に発した後において、仮にその引換を拒むと見られよ、その極、終(つい)に竹槍蓆旗(むしろばた)の騒動を見るに至るは必然でありましょう、もしまた前以て朝廷において引換るという時には、たちまちその価が騰貴して、その間において僥倖(ぎょうこう:思いがけない幸運)の利を射るものが多く出来て、これまた一の弊竇(へいとう:弊害となる点)を造るの虞(おそ)れがあるから、何分にもこの藩札引換の布達は、廃藩の布告と、その間髪を容れざるものである。故に大蔵省においては、速かにその交換の方法を予定しておいて、廃藩の布告と同時に、全国へ令すべしという事になって、七月十三日は休日であったけれども、自分は特に出勤して、その調査をしたことでありました。
この廃藩置県の大号令と共に、大蔵省の事務は益々繁忙を加へて、就中(なかんずく)廃藩の跡始末を整理するのが、実に非常の困難であった。もっとも至急を要せねばならぬ事柄だから、自分は井上の指揮に従って、僅(わずか)に両三日の間にその方法を立案して、数十枚の処分案を条記し、これを井上の手許(てもと)へ出したことがある、その処分の大目は、藩々金穀の取締から負債の高、藩札の発行高、又は租税徴収の方法、その他、各藩に於て種々施設中に属する事業の始末等までも関連して居て、なかなか面倒のものでありました。」
これを読むと、廃藩置県に伴う藩札の太政官札への引換事務の準備のため、栄一は布告前の7月13日は日曜日で休日であったが出勤して調査をし、布告後は一層忙しくなり、それでも至急案件であるので2~3日で処分案を決定したというふうに読めます。
一方、「青淵回顧録」では「それで廃藩の布告と藩札引換の方法とを同時に発表しなければならぬというので、改正係に交換方法の具体案に就いて調査を命ぜられたので、私は二三日の間は殆(ほと)んど不眠不休で其の処分案を立案し、これを数十枚の草稿として井上大輔の手許まで差出したが、何しろ僅(わず)か数日間に廃藩の跡始末を整理するに就いての具体案を作製するのであるから、私の苦心というものは実に一方でなかった」と書いてあります。
「青天を衝け」では、布告前の準備が非常に大変だった様子が描かれていましたが、おそらく、「青淵回顧録」に沿ったものにしたのではないでしょうか。
こうして、明治4年7月14日、廃藩置県の詔が発せられ、藩が廃止され、藩知事は全て罷免されて東京に居住することが命じられました。そして、藩知事にかわり、政府が任命する府知事・県知事(のち県令)が各府県の行政を行うこととなりました。藩は全て県となり、日本全国で、3府302県となりました。
廃藩置県については、政治面からだけ描かれることが多かったのですが、「青天を衝け」では、栄一たちの縁の下の力持ちにスポットが当てられていて、財政面の視点からも視ることの重要性が指摘されているようにも感じました。
中公文庫「日本の歴史⑳明治維新」p214.215の中で井上清は、廃藩置県の際に諸藩の抵抗がなかった理由について次のように書いています。
「旧藩の内外人にたいする債務および藩内かぎり通用の不換紙幣である藩札は、すべて政府が継承した。(中略)経済的には、旧藩知事も士族も旧藩にたいする内外の債権者も(藩札所有者も一種の債権者である)、だれ一人として廃藩そのことによって損をするものはなかった。むしろ旧藩主らは、とうてい払えないことの明らかな借金をすっかり政府に肩代わりしてもらい、内外の債権者も確実にそれを取り立てることかできるようになったので、経済的にだけみれば、旧藩主らにとっては廃藩は利益にさえなった。ここに廃藩にたいして諸藩の抵抗がおこらなかった理由の一つがあろう。」
この井上清先生の説に基づいて考えれば、栄一たちの獅子奮迅の働きが、結果として廃藩置県という大変革をトラブルなく無事実現させたということになりそうです。
このように考えると「青天を衝け」第30回は、渋沢栄一の偉大さを改めて認識させるものだったといえそうです。

