栄一、大久保利通と衝突する(「青天を衝け」166)
「青天を衝け」第30回では、栄一は大久保利通と意見衝突しました。今日は、その大久保利通との意見衝突について書いていきます。栄一の大久保利通の人物評まで書いたので、ちょっと長くなりますが、ご容赦ください。(下の大久保利通の写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載させていただきました。)

栄一が大蔵省に出仕した際の実質的な責任者は、大蔵大輔の大隈重信でした。その大隈重信は明治4年7月14日(廃藩置県の実施日)に参議に転出しました。大蔵大輔より参議のほうが上位ですので、形式上は栄転ということになりますが、実際は、大隈重信を大蔵省から排除するための異動だったようです。
当時、大蔵省は、絶大な権限を持っていました。その大蔵省で、大隈重信は、急進的な政策を進めていきました。この急進的な政策を政府内の保守勢力は苦々しく思っていました。大隈重信の急進的な政策を支えていたのは、伊藤博文や井上馨などの長州出身者です。その長州藩の中心人物木戸孝允も大隈重信を支持していました。しかし、廃藩置県の頃から、木戸孝允が急進的な政策を推進する大隈重信へのバックアップを控えるようになりました。こうしたこともあり、大隈重信は、参議に転任することになりました。(伊藤之雄著「大隈重信」より)
すでに、明治4年6月27日付で大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔、渋沢栄一が大蔵大丞に任命されていたため、大久保利通が栄一の上司ということになりました。
そして、事件が起きたのは、その年の8月です。このことは「雨夜譚」にも詳しく書かれています。
「その歳の八月頃、政府で陸軍省の歳費額を八百万円に、海軍省の歳費額を二百五十万円に定めるという議があって、大久保大蔵卿はやむことをえずこれに同意せねばならぬということで、その頃大丞の職にいた自分と谷鉄臣・安場保和の三人へその意見を下問があった」
大久保利通の下問に対して、栄一は「大蔵省においても早く全国の歳入額を明瞭にして、それを標準に各省の定額を立ようという企望で、精精努力して調査しつつあるけれども、今日は未だ正確の統計を見ることが出来ません、故に今政府において軽易に各省の定額を定めるというは、はなはだ不相当なことと存じます。(中略)目下の計はその入用の度に応じて、切にこれを制限して、その支出に応ずるの外に妙案というはありますまいから、定額の事は暫く御見合せありたい、但し一日も早く歳入の総額を知ることに勉強していますから、遠からず正確の統計が出来得るに相違ない、その上にて各省の費額を御定めなさるがよろしかろう。」と自分の所存を詳細に述べました。(「雨夜譚」から)
その頃、栄一は、歳出入の統計表を作り、「量入為出(りょうにゅういしゅつ:収入を計算して、その後に支出を決めること)」の方針に基づいて、各省経費の定額を設け、その定額によって支出の制限を定めようと計画していましたが、未だ歳入の総額も明瞭でなく、正確の統計もできていませんでした。
そのため、栄一が言っていることは、「歳入がどのくらいあるかを把握して国家の歳出を定めるべきである。しかし、現在は歳入がどのくらいあるか調査中であるので、それが明確になってから、陸軍省と海軍省の支出を決めるべきである。」と言ったのです。
それに対して、大久保利通は、いと不興気に、「然(しか)らば歳入の統計が明瞭になるまでは、陸海軍へは経費を支給せぬという意念であるか、」との意外な詰問がありました。
そこで、栄一は、「イヤ決して陸海軍の経費を支出せぬという意味ではありませぬ。もちろん、陸海軍がなくては国を維持することの出来ぬということも存じておます。しかし今大蔵省は一歳の歳入統計が出来ぬ前に、支出の方ばかり心配して、しかも巨額の定額を立るのは、第一に会計の理に悖(もと)って、頗(すこぶ)る危険の処置であろうと思惟して、腹蔵なく愚見を述べたのであります、固(もと)より御採用の有無は大蔵卿の御胸中にありましょう」と言って席を退出しました。
以上、「雨夜譚」に基づいて書きましたが、「雨夜譚」では非常に詳しく書いていますので、長くなり、申し訳ありませんでした。
「青天を衝け」では、会議室での4人での会議ではなくて、改正掛の人々がいる場所でのやりとりとして描かれていましたが、基本的には「雨夜譚」どおりでした。
この事件は、栄一にとってもかなり記憶に残る事件だったようです。「雨夜譚」だけでなく「実験論語処世談」にも詳しく書いています。
「実験論語処世談」の中の「木戸先生と大久保卿」の中で、どうして大久保利通が怒ったのかも分析しています。デジタル版「実験論語処世談」から引用させてもらいます。
「大久保卿は私と争い、私が大久保卿と争った事のある次第は、これまで談話したうちにも詳しく申述べ置いた通りであるが、あの場合は私が、大久保卿が財政の事に碌々(ろくろく)通じもせぬ癖に、勝手気儘(きまま)の意見を主張するものと考えて反対したのと、又大久保卿が薩摩人の性癖から私の卒爾(そつじ:突然の意味)として反対意見を述べたのを癪(しゃく)に障(つか)え、生意気な事をいう若輩だと思われたのから起った争いで、むしろ大久保卿一生の性行中で例外に属すべきものである。大体からその平素をいえば、大久保卿は江藤さんや黒田伯とは異って、容姿の閑雅な、挙動に落付いた処のあった方で、容易に他人と争はれるやうな事をせられなかったものである。私と争った場合の事についていえば、もし大久保卿にいま一段と大きな性格がありさえしたら、あの場合にも私などと争わず、私の言う処にも理があるから、一つその意見を訊(たずね)し詳細を聞いてやろうとの気を起され、私と争う如き児戯に類する事をせられなかった筈だと思うのである。」
栄一は、大久保利通が財政のことを知らなかったと言っていますが、栄一の言う通り大久保利通は、財政面は、あまり得意でなく、大蔵卿就任早々には辞任したいと申し出ていたこともあったようです。(「世外井上公伝」より)
財政面で得意でない大久保利通が、その点を暗に栄一に指摘されたため、思わず感情的になったという面もあるのではないかと私は思います。
これまでの経緯でもわかるように、栄一は、大久保利通とは、あまり反りがあいませんでした。そのことは、栄一自身が語っています。
「大久保利通公は私を嫌いで、私は酷く公に嫌われたものであるが、私も亦、大久保公を不断でも厭な人だと思っておったことは、前にも申述べて置いた如くである。」そして、その要因は「(大久保利通は)底が知れぬだけにまた卿に接すると何んだか気味の悪いような心情を起させぬでもなかった。これが私をして、何となく卿を「厭やな人だ」と感ぜしめた一因だろうとも思う」と語っています。
こうしたあまり反りの合わなかった大久保利通ですが、その偉大さは、栄一もしっかりと認めていて、「実験論語処世談」の「器ならざりし大久保利通」というテーマで大久保利通は「器ならずの人」であったと述べています。「器ならず」という言葉は、論語のなかの「君子は器(き)ならず」に基づいていて、「ある用途のために作られた器物(うつわもの)と異なり、君子は一技一芸にかたよらず、完全円満である。」という意味だそうです。
その部分は次の通りですが、全体が長くなりましたので、余裕がありましたら、お読みください。
「たとえ、公は私に取って虫の好かぬ厭な人であったにしろ公の達識であったには驚かざるを得なかった。私は大久保卿の日常を見る毎に、「器ならず」とは、必ずや公の如き人を謂ふものであらうと、感歎の情を禁じ得なかったものである。
大抵の人は、如何に識見が卓抜であると評判せらるるほどでも、その心事の大凡は外間から窺い知られるものであるが、大久保卿に至っては、何処辺が卿の真相であるか、何を胸底に蔵して居られるのか、不肖の私なぞには到底知り得らるゝもので無く、底が何れぐらいあるか全く測ることの能(で)きぬ底の知れない人であった。毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易に窺(うかが)い得せしめなかった非凡の達識を蔵して居られたものである。私も之には常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだろうと思ってたのである。」

