井上馨、長崎・大阪を経て中央で活躍(「青天を衝け」168)
「青天を衝け」第29回から井上馨が登場しています。井上馨は栄一の直属の上司ですので、これからも数回は登場すると思います。そこで、今日は、井上馨について書いていきます。(下写真は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」がら転載させていただきました。)
井上馨は、天保6年(1835)11月28日長州藩士井上光享の次男として生まれました。(栄一は天保11年生まれですので井上馨が5才年上です。)のち長州藩士志道(しじ)家の養子となり名も聞多(もんた)と改名しました。その後ふたたび井上馨家に戻りました。幕末期には木戸孝允、高杉晋作らとともに急進尊攘派とて活躍し、文久2年(1862)高杉晋作、伊藤博文らと英国公使館を襲撃したことはよく知られています。確か、「青天を衝け」でも思い出語りとして井上馨が栄一に話していたと思います。
しかし、一転して、文久3年に伊藤博文らとともに英国に渡航しました。この人たちは「長州ファイブ」と呼ばれています。そして、イギリスに到着して間もなく、元治1年(1864)長州藩が外国船砲撃したとの知らせ聞いて急遽帰国し、英国公使パークスと長州藩との調停に奔走した。
慶応2年(1866)高杉晋作による藩政奪還の義挙には鴻城軍総督として参加しました。そして、第2次長州征伐の際、厳島での幕府との休戦の話し合いにも列席しています。
その後。薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器,外国船の購入などに携わりました。
このように、井上馨は、幕末の急進的尊攘討幕派の中心人物として勇名を馳せていました。
明治新政府が樹立され、九州鎮撫総督参謀を命じられ、明治元年1月長崎に入りました。長崎は、当時、旧幕府の長崎奉行が退去していたため、長崎到着後ただちに裁判所参謀となり、長崎の治政に努めました。その後、外国事務局判事、長崎府判事兼外国官判事などを歴任しました。
当時、長崎で大きな問題となっていたものが、浦上キリシタン問題です。
この問題は、旧幕府時代からの懸案問題でしたが、明治政府もキリスト教禁止を維持したため、これに対して諸外国から頑強な抗議が寄せられ、この問題の解決に、井上馨は苦慮しました。
また、井上馨を悩ました問題が贋金(にせがね)問題でした。この問題は、外交問題であるとともに財政問題の面もありました。
そうした中で、明治2(1869)年8月18日、大蔵省造幣頭に任命されました。当時、貨幣造鋳のため、明治2年2月に造幣局が設けられ、7月に造幣寮と改称されていました。イギリスから造幣機械を輸入して貨幣を造幣する準備を進められていました。この造幣寮のトップとして大阪に赴任することになりました。井上馨が命令を受けた頃は、造幣寮の建築が始まった頃でした。この間の事情を、「世外公維新財政談」で栄一が次のように語っています。
「(造幣寮が建設される)当初に誰が任ぜられたか、外国人と祈合が悪い、事務が運ばぬと言うから、これはどうしても、外国人をよく使って仕事の完全にできる人でなければいかぬ。そこでこれは前の首唱者だから、井上に行って貰う外ないというので、大隈、伊藤はこちら(東京)に居ったし井上を遣ろうじゃぁないかという相談が定まって、君行けという訳で、行かれたのに違いない。
それで、1年ばかりやって中に、伊藤さんが、三年にアメリカに行くようになって大蔵省の仕事が、誰か有爲な者がなければならぬ。それでは井上をこちらへ招んで、誰か彼方へ代りを遺らうということになって、相談が出來たのは三年の冬だ。」
そして、井上馨は、明治3年11月12日には、造幣寮頭兼任のまま大蔵少輔に任じられました。
栄一が井上馨に初めて会ったのは、この頃のことのようで、伊藤博文の屋敷の玄関で会い、栄一が丁寧に挨拶しているのに対してぶっきら棒な挨拶だったので栄一はよく覚えていると「世外公維新財政談」で次のように語っています。
「何でも私は確かにあなたにお目に懸かったのは伊藤さんの築地の家じゃぁなかったかと思う。何でも玄関の所で、オォ、貴様、渋沢かといって、私はお目に懸ったのを覚えております。閣下が洋服を着ておいでになった。お帰りがけに、私が行った。所で、ア、それなら、是から懇意にしなくちゃならぬといって、立談したのを覚えております。 私は恭(うやうや)しく礼をしたのに、一向頓著(とんちゃく)なしに、オ、貴樣渋沢栄一かというような調子で、ア、おれは井上だ、どうか宜しくお賴み申すといったような風で、あまりひどい人だと思って、それで私はお目に懸ったのを覚えておる。多分伊藤さんの玄関だったと思う。 それが3年11月か、4年春か、時日は判然覚えませぬが、その時です。」
そして、明治4年7月14日の廃藩置県の実施後の7月28日、井上馨は大蔵大輔に任じられました。これ以降、栄一は井上馨と直属の上司と部下という関係で仕事を行っていきます。
二人は財政規律を重視するという考えが一致していて、息を合わせて仕事をやっていきますが、明治6年5月に至って、二人とも同時に大蔵省を退官することになります。そのあたりは、ネタバレとなりますので、詳細は控えますが、一緒に退官をするということにも現れているように、常に行動をともにしていました。
井上馨の伝記である「世外井上公伝」は栄一もその編纂会の役員となって発刊されたものですが、その序のなかで、栄一は「余(栄一)と公(井上馨)との交情は所謂(いわゆる)水魚の交といっても過言でない程であった。それ(退官)から後、公の薨去まで永い間双方の間に少しも疎隔も生じたことなく、もちろん余は公から容易ならぬ庇護を蒙った次第である。」と書いてあります。
二人の関係は、この文でよくわかるだろうと思います。
二人の関係はこうした関係でした。そのため、栄一は井上馨の避雷針だと言われたようです。栄一の四男渋沢秀雄は「父渋沢栄一」の中で次のように書いています。
「一体井上はよくカンシャクをおこす人だったから、後に世間からカミナリオヤジと呼ばれた。しかしそのカミナリも栄一だけには落ちなかったので、彼には「避雷針」という名がついた。これは栄一の仕事ぶりが行きとどいていたせいにもよるが、二人はウマが合っていたのである。」