栄一、「国立銀行条例」を作る(「青天を衝け」169)
「青天を衝け」第31回も盛沢山でした。書くべきテーマが満載ですが、渋沢栄一といえば、第一国立銀行の名前が出るほど、栄一と第一国立銀行との関係はきってもきれない関係にあり、その「国立銀行条例」の話が取り上げられましたので、今日は、「国立銀行条例」について書いていきます。
国立銀行条例は明治5年11月15日に告知され、それに基づいて第一国立銀行を始めとした国立銀行が設立されました。
この「国立銀行条例」の制定に力を尽くしたのが栄一でした。
「雨夜譚」では、「国立銀行条例の実施」というタイトルのもと、次のように語っています。
「かくて井上(井上馨)はますます勉強して、出来得るだけ各省の政費を節約させて全体の会計上から歳入の幾分ずつ余してそれを正貨で蓄積する精神でしきりに尽力しられた結果として、概略二千万円余の正貨を得たによって、昨年伊藤が米国から調査して来た国立銀行条例を実施しよという見込で、その歳の夏頃から自分にその取調を専任されたから、勉強して調査を終わったが、それを政府へ上申して広く天下に布告になったのはその歳の八月二十五日であった。」
「国立銀行条例」の制定という仕事は、栄一が大蔵省で行った功績の中でもトップクラスだと思うのですが、予想外にあっさりと書いてあります。
ここに至るには、大蔵省内での「銀行論争」もありました。これについては、「雨夜譚」にも書いてありませんし、「青天を衝け」でも描かれていませんが、かなり重要なことなので、最後に補足説明しました。ご興味がある方はご覧ください。
国立銀行条例が発布されることになり、国立銀行の設置の準備に栄一は奔走します。
「青天を衝け」の中では、三井組と小野組を呼んで、協同で国立銀行を設立するよう強く要請していましたが、栄一も前述の「雨夜譚」に続いて次のように語っています。
「それより以前に、三井組において私立銀行を立てたいといって、三野村利左衛門から請願したことがあったから、井上に相談してこれを許可しようとしたけれども、その頃からこの銀行条例の取調に掛ったからしばらく三野村に猶予を命じて置いたが、そのうち今の条例が出来たによって、いよいよこの条例に準拠して私立の名義でなく国立銀行として創立しようということになって、すなわち現今の第一国立銀行はその歳の秋頃から計画をしたものでありますが、これを国立銀行とする以上は、独り三井組ばかりでなく、小野組、島田組などといって東京府下において名あるものとも協同し、その他一般の株主をも募集することになりてそれぞれ相談も行届き、創立の願いを出して許可を受けたのはその歳の冬でありました。」
栄一と井上馨は、一度は三井組に単独での銀行設立を許しているにもかかわらず、それを撤回して、小野組との協同での設立を強く要請しています。
それを断る三井組と小野組に、官金の取り扱い停止で脅して、協同の設立を認めさせていますが、このことも史実です。
「三井事業史本篇第2巻」に「国立銀行条例草案の編成作業が最終段階に入った5月21日、井上ら(井上馨・渋沢栄一、芳川顕正)は、三井・小野両組の首脳に出頭を命じ、両組が不和を解消して銀行の設立に協力するよう、強力な勧告を行った。(中略)井上らは、官金取扱いの停止をほのめかした、大蔵省の意向に沿うよう恫喝を加えたのである。」と書いてあります。「青天を衝け」で描かれていた場面は、まさにこの通りでした。
また、三井組が建設した三井組ハウスを第一国立銀行の本店用に譲渡を迫ったのも史実です。
「三野村利左衛門伝」(三野村清三郎著)に次のように書かれています。
「さらに政府は、折角苦心のすえ完成した海運橋の三井組ハウスをも第一国立銀行へ譲渡するように要求してきた。この要求に対する利左衛門懸命の反対交渉もまた押し切られ、今後の布石を目算した三野村の情勢判断から、ついに第一国立銀行本店用に明け渡すことになった。」
※下写真が第一国立銀行本店です。(国立国会図書館「写真の中の明治・大正」より転載) この建物は、設計を清水組(現清水建設)2代目の清水喜助が設計し、三井組が5万両もの大金をかけて建築したものでした。清水喜助は「青天を衝け」にも登場していましたね。清水喜助は栄一とも関係の深い人です。三井組は、この建物を譲渡した資金で駿河町に為換バンク三井組を再度建築しました。小栗上野介と三野村利左衛門の生涯を描いた高橋義夫著「日本大変」には、5万8千円で建てたハウスを12万8千円で売却し、その資金で駿河町に新たなバンクの建物を建てたと書いてあります。

このように、栄一と井上馨の三井組・小野組への要求は強烈なものでした。これを見ると「青天を衝け」でも描かれていた三野村利左衛門の嘆きももっともだと思われます。
【補足説明:大蔵省内での銀行論争】
大蔵省の中で、銀行の設立の重要性は、以前から議論されていました。「銀行論争」については、「青天を衝け」でも描かれていませんでしたが、重要なことなので、説明しておきます。
銀行制度の導入に関して伊藤博文はアメリカの銀行制度を調査したいと建議して、明治3年10月に、アメリカに渡りました。そして、年末にアメリカの銀行制度を導入するように求めた調査報告書が送られてきました。しかし、大蔵省内では、イギリスの銀行制度を導入すべきであるという意見があり、大蔵省内での「銀行論争」がありました。
この「銀行論争」でアメリの銀行制度の導入を決めたのは井上馨です。「世外公維新財政談」の中で、栄一は次のように語っています。
「(銀行)制度は伊藤さんが、アメリカから調べて来たものに拠(よ)るという事で、ほぼ井上さんはそれを調べて見ろとおっしゃった。ところがその時に異説が出た。その異説は吉田淸成という人が主張者であった。それはイギリス流儀でなければならぬ、アメリカ流儀は統一がなくていかぬから、銀行はイギリス流儀に造るがよかろうというのが、吉田の説。もちろんそれは尤(もっと)もなんです。決して悪くはないけれども、その時の伊藤さんや、井上さんの説は、アメリカ式によって発換引換をしようという、不換紙整を発換しようというのが趣意だった。そこでアメリカ制度に拠ろうとした。それが種々議論があって、幾度も寄合いました。それでとうとう、結局井上さんが判断して、まづ後にはどうするとも、この場合は伊藤の調べて来たアメリカのナショナル・バンク・アクトを採用してやるがよかろうと思う。あまりぐずぐず言っていると、時を遅らして成立たなかったら仕方がない、三井などは大に力を入れて、銀行を造りたいと言っているから、その時を失わずに掛るのがよかろう。事業などは、一時に完成する訳に行かぬから、あるいは吉田の説もよいかも知れぬ。アメリカよりもイギリスの制度がよいということは、金融一体の方法としては然りであろうけれども、今日本においてはこの法を採用するが適当と思うということに論が帰した。私もそれに御同意申した方。それでいよいよ、明治五年十一月でしたか、条例が発布になったのは。」

