尾高惇忠、娘ゆうを工女とする(「青天を衝け」173)
富岡製糸場は、明治5年7月に建物は完成しました。しかし、操業開始のためには、さらに難問がありました。工女の募集でした。
富岡製糸場は、フランス式の機械で繭から糸を取り出す工場です。その取り出す作業は「操糸」と呼ばれ、工女と呼ばれるうら若き女性が行いました。従って、製糸場の操業のためには工女が必須でした。しかし、その工女が思うように集まらず、尾高惇忠を悩ませていました。
工女が集まらないのには理由がありました。それは、富岡製糸場の西洋人は血酒を飲んでいて、そこに入ると、生き血をとられ死んでしまうという風説が広がっていたためでした。
「新藍香伝」には次のように書かれています。
「風説とは何か。 フランスから御雇い教師プリューナー一行は魔法使の悪鬼どもで、年若のエ女をかの工場に入れると、たちまち生血を絞られて、その生命は断たれると云うのである。しかもこの悪説は土地のひとびとでなく、相当な人が現に見たと云うのが原因であった。何を見たのか、それは異人の飲む血酒だと云う。よくよく調べると、それはブドー酒のことであった。現在、ブリューナ館は大切に保存されているが、そこには地下室がついている。当時の日本では、地下室から赤いブドー酒を取り出して飲むのが、よほど奇異に見えたのであろう。」
尾高惇忠は、その風説は真実ではないと否定しつつ、工女として応募するように説得をしましたが、その説得に応じるものはいませんでした。
そこで、ついに尾高惇忠は、自分の娘ゆうを製糸場の工女第一号として富岡製糸場に招くことにしました。
その時、ゆうはまだ14歳でした。現在で言えばまだ中学生です。その年端もいかない娘を工女として、フランス人の指導のもとにおくことにしたのです。(下写真は尾高惇忠生家に展示されていた尾高ゆうの写真です。)

「青天を衝け」では、尾高惇忠の話に驚くきせとゆうでしたが、祖母やへの説得により、ゆうは富岡製糸場に行くことを決断していました。
尾高惇忠のこの熱意とゆうの決意に動かされ、故郷下手計村の娘たち5人もゆうとともに富岡製糸場に向かうことになりました。さらに、工女に応募した松村倉の祖母和志は、62歳の高齢にもかかわらず応募し工女取締となりました。
さらに、尾高惇忠は、近県の名主など有力者にも協力をお願いしました。その願いに応じるものが出るようになりました。比企郡小川村(現在の埼玉県比企郡小川町)の当時59歳であった青木伝次郎の母てるです。てるは、小川の人々に工女なるよう熱心に説いて回り、孫娘の敬をはじめ、30余名の若い女性を富岡製糸場に連れて行きました。
こうした尾高惇忠の熱意そして娘ゆうの勇気を見たことにより、人々の間にあった血酒の風説も消え、工女の応募も増えて、明治5年10月4日には操業が開始されました
明治6年1月までに製糸場が雇い入れた工女は、群馬県から228名、入間県(現在の埼玉県の県北部)98名、長野県11名など合計404名になったと「富岡製糸場史」に書かれています。
尾高惇忠の子供ゆうは、一等工女となったのち、明治8年1月には富岡製糸場を去りました。その後、明治10年に、第一国立銀行専務永田甚七の養嗣子清三郎と結婚します。
清三郎との間には6人の子供に恵まれ、長男甚之助は、埼玉銀行(現りそな銀行)の初代頭取となりました。
民俗学者宮本常一は山口県周防大島で明治40年に生ました。その宮本常一が書いた「女工たち」(岩波現代文庫『女の民俗誌』収録)の中に、三田尻から大阪まで軍艦まで送られて山口から多くの工女たちが富岡製糸場に向かった様子が次のように書かれています。
「私のまだ幼かったころ、時折祖父からきかされたことがある。いまのエ女(私の祖父は女工とはいわなかった)は貧乏な家の子がなるものだが、昔はさむらいの娘がなったものである。上州の富岡というところに日本ではじめての製糸工場ができて、そこへ山口県からもたくさん工女がいったが、そのとき工女となった娘たちは三田尻から軍艦に乗って大阪まで送ってもらったということである。
これから新しい世の中が来るというので、それこそ大家のお嬢さまが模範を示すためにすすんで出かけてゆき、それを送るのに軍艦を用いたというのであるから、みんなの意気込みも大へんなものであったろうし、それは一般民衆の世間話として長く伝えられるほどの大事件であったと思う。」
この時の富岡製糸場に向かった女子のなかには、長井雅樂の長女貞子や井上馨の姪鶴子と仲子も含まれていると宮本常一は書いており、富岡から遠く離れた山口であっても富岡製糸場の工女の位置が高かったことがわかります。
そういえば、群馬県の初代県令は、長州(現山口県)出身の楫取素彦(大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公ふみの夫)で、明治7年に熊谷県権令となり、熊谷県が明治9年に入間県と群馬県に分離されてできた群馬県の初代県令となり、富岡製糸場の発展に尽くしていました。そのため、楫取素彦から故郷山口県に多くの工女を派遣するようになどの働きかけたがあったかもしれません。

