栄一、大蔵省を退官する(「青天を衝け」175)
「青天を衝け」第32回で、いよいよ栄一が大蔵省を退官しました。「青天を衝け」では、予想外にあっさりとした描き方でしたが、雨夜譚」では、栄一自身が丁寧に書いていますので、今日は、栄一の大蔵省退官について書いてみます。ちょっと長くなりますが、ご容赦ください。

栄一が退官した直接のきっかけは、井上馨が退官すると言い出し、井上馨とともに辞職したわけですが、それ以前に、退官しようとする動きは何回かありました。「雨夜譚」に書かれているだけでも2回あります。
まず、第1回は、明治4年の夏に大阪の造幣局に出張した際に、現在の商人たちの姿をみると、とても改革はできないから、栄一自身が大蔵省を退官して実業界に飛び込んで改革しようと決意しました。しかし、その時には、大隈重信や伊藤博文に止められました。
「雨夜譚」では次のように語っています。
「大阪の造幣局に用事があって、大隈、伊藤、吉田清成などの人々と同行して大阪まで旅行したことがあったが、その帰り路において熟(つらつ)ら将来日本の経済を考案してみるに、この末、政府においていかほど心を砕き、力を尽して貨幣法を定め、租税率を改正し、会社法または合本の組織を設け、興業殖産の世話があったとて、今日の商人ではとうてい日本の商工業を改良進歩させる事は成し能(あた)わぬであろう、ついてはこのさい自分は官途を退いて一番身を商業に委ね、およはずながらも率先してこの不振の商権を作興し、日本将来の商業に一大進歩を与えようという志望を起しましたから、大隈、伊藤にもその意を吐露して、辞職の事を相談に及んだ処が、両氏ともその志に大いに賛成したが、今日足下(そっか:貴方)の辞職を聞き届けるときは大蔵省においてはなはた差支えの筋もあることだから、今少し見合せろという返答であった。」
そして、2回目が、明治4年8月に大久保利通と衝突した時です。大久保利通から陸軍省と海軍省の予算を決めたことに意見を問われた際に、栄一は、自分の考えを腹蔵なく話し、大久保利通と意見衝突しました。この時に、大蔵省を退官しようと改めて決意したのでした。決意をするとすぐに井上馨の屋敷を訪ねて辞任したいと申出て明日にも辞表を提出するから認めてもらいたいとお願いしました。
これ対して井上馨は、同意せず、しばらく東京を離れて大阪へ行っていろといって説得しました。以下、「雨夜譚」です。
「井上は大いに不同意で、足下の意見は一理あれども、今日はまだその時機とはいわれぬ。大蔵省の事務多忙を極める今日に当ってにわかにその要職を辞するというは、少しく穏当(おんとう)を欠く挙動といわざるを得ん。何分にも辞職の念を翻(ひるがえ)して一層勉励あるように希望すると、懇(ねんごろ)に説諭もあったが、自分においては既に決意して申し出たことだから種々(いろいろ)抗弁して強いて請求した処が、井上がさらに自分に示していうには、なるほど足下が彼の各省の定額論からして将来を掛念するのは実に道理至極だが、大蔵省の事務を真成に皇張(こうちょう:大いに主張すること)することを得て日本の財政を整理する一段においては乃公(だいこう:我が輩)少しく方案もあるから、遠からず実施するであろう。それゆえ足下の退任もしばらく猶予して居て、このさい大阪にいって造幣局の事務を監督しろと、いかにも城府(じょうふ;隔て)を開いた懇篤(こんとく)の説諭を受けたによって、ついにその意に従って辞職の事を中止して大阪へ出張することにしました。」
こうして、栄一は、引き続き大蔵省に勤めることになりました。
このように大蔵省を退官したいと辞意を表明することが過去に2回ありました。そして、明治6年5月を迎えることとなりました。
それまでも、大蔵省は予算権限はもちろんのこと多くのことを司り、最も権力のある省でした。当時の大蔵卿は大久保利通でしたが、岩倉使節団の副使として海外に行っていました。そのため、大蔵省の実質的なトップは大蔵大輔の井上馨でした。井上馨は、各省庁からの予算増額要求をはねつけていました。そのため、他省庁と大蔵省との間には緊張感がただよっていました。
明治6年の予算についても、井上馨は増額要求を拒否していたため、他省庁との争いが激しくなりました。特に司法卿江藤新平との対立が激化していました。また、その対立を収めるべき西郷隆盛、板垣退助などの参議の面々も、事態収拾に積極的でなく、大蔵省を擁護することが期待された大隈重信も見て見ぬふりをする始末でした。
そこで、5月3日に、井上馨は辞職も覚悟して参議の会議に出席しました。しかし、どう説明しても井上馨の説明は理解されませんでした。そこで、井上馨は辞職の腹を固めて大蔵省に戻ってきて、栄一はじめ職員に退官すると宣言しました。それに対して栄一も前々から退官の意向を持っていたので、栄一も退官することになりました。以下、「雨夜譚」からです。
「5月3日に再び政府へ出頭して泣血論弁しられたけれども、やはりその言は用いられることが出来ずして、その日の11時頃に大蔵省に帰って、自分を始めその他の吏員を招いて始めて辞職の事を発言した上、さらに自分に向って、今申し述べたる如く乃公(だいこう)本職を辞すると決心した以上は速やかにここを退出するが、ついては足下を始め一同に跡の始末はよろしく御頼み申すといって、既にその席を退かんとするから、自分は急にこれを引留めて、貴君が御辞職もさることながら、拙者もまた思う仔細があるからこのさい貴君と共に辞表を呈しましよう、けだし拙者の職を辞すると申すのは今日発意した訳ではない、すなわち一昨年以来胚胎(はいたい:みごもること)して居ることで、辞職を請願したのも既に再三のことだから貴君も御熟知の通りであります。しかるを今日まで留任したというは、全く貴君が抱持(ほうじ:いだく)せられた財務改良の主義に感じて一臂(いっぴ:わずかな力)の力を尽そうと決意したからのことであるが、今に及んでその持論を行われぬ以上は、何を目的に貴君の跡に留まる必要がありましようぞ、と明言して、ついに井上と袖を連ねて大蔵省を去ったのはその日の12時過ぎであったが、やがて両人とも辞表を政府へ奉呈しました。」
こうして、栄一と井上馨は一緒に辞表を提出し、辞表は5月23日に受理され、二人はともに大蔵省を退官することになりました。
「青天を衝け」では、栄一は、井上馨の辞表提出にあまり驚くことなく淡々と私もやめますという対応でしたが、実際は、そんな簡単なことではなかったようです。というのは、井上馨と渋沢栄一は、大蔵省のナンバー2とナンバー3ですので、この二人が退官することは、財政に限らず国政全般にも大きな影響が予想されました。そのため、井上馨が栄一の退官を引き留めました。しかし、それに対して栄一は断固として抵抗したようです。
「世外公事歴 維新財政談」の中で次のように栄一が語っています。
「井上さんは内閣の方へ行かれて、散々議論したのでしょう。大変ご機嫌が悪い、怒りきって帰って来て、火がつくような有様で…吾々二人とも辞職しては困るというお話。『仕方ない、そんな事を言ったって私は御免蒙る」『それは困るだろう二人一緒に出るということは宜しくなかろうよ』、『宜しくなければ貴所お止めなさい』、「迚(とて)も俺にはやれね』、「貴所にやれないものを私にやれというのは無理ぢゃぁございませぬか』『イヤ誰か來るからやれ』、『誰が来るからッて、分りもせぬ人に附いてやる了簡はないから、貴所がいなければ、私もいけない』、『そんな事をいうと何だか政府に向って喧嘩腰になって宜くない』『喧嘩腰になって宜くなければ貴所がお止めなさい私は喧嘩腰でも何でもない、是非ここで罷めて貰はなければ困る、一昨年の事などは、お忘れになりましたか』『忘れはせぬけれども、そんな事を言って呉れぬでも宜いぢゃないか』と云って、侯(井上馨のこと)は頻」しきりに留められたけれども、私はその時分喧嘩の衝には当って居らぬがここで罷めさして下さるが、御親切ぢやないか、一昨年あの通り言ったのを、今になって俺が罷めるから、貴様殘れ言っちゃ、あまり無理ぢゃありませぬか』、『まア仕方がない、それじゃぁやれ』というので二人ともに辞表を出した。」
栄一としては、実業界へ飛び込む絶好のチャンスだと思ったと思います。ですから必死になって「やめる」と言っています。ただ、よく理解してくれている井上馨がいなくなった後は全責任が栄一にかかってくるので、それはごめんだという気持ちもあったかもしれません。
実際に二人が退官した後の大蔵省は大変だったようです。「世外公事歴 維新財政談」の中に次のような佐伯惟馨(よしのり)の談話が残されています。
「佐伯君:渋沢さんと閣下(井上馨)とが、辞表をお出しなされて、廻議が毎日々々沢山あるのだが、決を取ることが出来ない、吾々は喪家の狗の如し、誰に行って宜いやら訳が分らぬ、実に困った。」
ナンバー2とナンバー3が辞めれば大混乱するのは当然だったでしょう。

