栄一、第一国立銀行総監役になる(「青天を衝け」176)
大蔵省を退官した栄一がどうしたかと言いますと第一国立銀行を創設しそこに入りました。そこで、今日は、栄一の第一国立銀行に入る話を書こうと思います。
栄一が、大蔵省を退官した時には、第一国立銀行は、まだ設立されてなくて、設立の準備中でした。栄一は、「雨夜譚」で次のように書いています。
「ここで前年から企望して居た銀行創立について、三井、小野両家の人々とも協議して、銀行事務を担任することを約束して、その月からこれに従事することになりました。」
第一国立銀行は、明治6年6月11日に三井組と小野組の合同で設立されました。第一国立銀行の資本金は、当初3百万円(3万株)、うち2百万円を五人の発起人で引き受け、残りの百万円を一般公募しましたが、当時の銀行業務に対する世間の理解がうすく株式の申し込みは予想外に少なかったため、結局発起人の引受高と公募高とを合わせて244万800円という資本金で発足することになりました。三井組と小野組のバランスをとり、三井組と小野組出身の頭取、副頭取、支配人を二人ずつおいて、月番制(月ごとの交代で仕事をする制度)としました。
頭取は、三井八郎右衛門(三井組)・小野善助(小野組)、副頭取は三野村利左衛門(三井組)・小野善右衛門(小野組)が就任しました。
栄一は、三井組と小野組の出身の役員より高い地位から第一国立銀行を経営するため、これらの重役の上の総監役に就任しました。事実上の頭取です。
こうして、栄一は、いよいよ実業界に乗り出しました。第一国立銀行をベースとして様々な企業の設立・経営に関与することになります。
さて、「青天を衝け」では、大蔵省を退官した早々、三野村利左衛門が栄一の屋敷に三井組の総理事就任祝いを届けるという場面がありました。反物を贈るという場面自体は創作だろうと思いますが、三野村利左衛門が、大蔵省退官早々の栄一に三井組の総理事に就任するよう勧誘したのは実話です。
この話は、「雨夜譚」では語られていませんが、三井グループのホームページ「三井広報委員会」の「渋沢栄一と三井」という記事の中に、「大久保利通ら富国強兵を主張する方面から理不尽な歳出を強く要求されると意見の異なる栄一は明治6年(1873)に辞表を提出。いよいよ民間の立場で経済活動を開始する。このとき、三野村は栄一に三井入りを強く望んだが、栄一は『自分一人でやりたい』と誘いを断っている。」と書いてあります。
このことをより詳しく書いてあるのが、鹿島茂著「渋沢栄一 上算盤編」です。それを引用させていただきます。
「『青淵回顧録』には、渋沢の談話を補うかたちで、三井の理事で、第一国立銀行設立のさいに専務取締役となった永田甚七が孫の甚之助に語った話として、次のようなエビソードが拾われている。「渋沢子爵が民間に下られたのは明治6年であるが、その当時三野村利左衛門氏が三井の総理事をやって居った。渋沢子爵が民間に下られたのを聞いて子爵を訪問し、『現今民間には貴下位の人物は無い。私も三井を隠退する考えで居るからその後任に貴下を推薦したいと思う。それで今日は御内諾を得ようと思って出掛けて来た次第である』と申された。三野村氏の気持では大三井の総理事であるから、渋沢子爵も喜んで承諾される事と思ったらしいが、子爵は一議に及ばず言下に断られたので、三野村氏も頗る意外に感じたそうである。渋沢子の気持からすれば、たかだか三井の大番頭位が何んだ、素町人のくせに生意気な事をぬかすというような意気がありありと見えていたそうだ」
栄一は、こうした三野村利左衛門の誘いを断ったうえで、第一国立銀行に入ったのでした。
最後に、「青天を衝け」で、財政改革に関する建白書が新聞に掲載されて一悶着あったという話が描かれていましたが、栄一は「雨夜譚」の中で「建白書の奉呈」で次のように書いていますので紹介しておきます。

