岩崎弥太郎、大隈重信からの台湾出兵協力要請を受諾する。(「青天を衝け」178)
「青天を衝け」に、岩崎弥太郎が登場しました。栄一と岩崎弥太郎の考えは、正反対のものでしたので、これ以降、様々な局面で競争していくことになりますが、それらは今後の「青天を衝け」で描かれてくるものと思います。
そこで、今日は、岩崎弥太郎について書いていきます。(下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」から転載させていただきました。)

岩崎弥太郎は、天保5年12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村(高知県安芸市)の地下(じげ)浪人で上農の弥次郎の長男として生まれました。※栄一は、天保11年生まれですので、岩崎弥太郎のほうが6歳年上です。
嘉永元年(1848)から高知の私塾紅友舎で学び、さらに安政2年(1855)から江戸の安積艮斎(あさかごんさい)の塾に学びました。安政6年(1859)に長崎に出張し,さらに慶応3年(1867)に藩営商社開成館の長崎商会に派遣され,艦船,武器の買い付けと土佐物産の輸出について外国の各商社とわたりあいました。
長崎で明治維新を迎えた岩崎弥太郎は、明治2年、土佐藩の開成館大阪商会の責任者に抜擢され、大阪へ移動しました。明治政府が藩営事業を禁止しようとしていたため、明治3年閏10月、開成館大阪商会を藩から分離し、九十九(つくも)商会が設立されました。岩崎弥太郎は九十九商会の管理監督者となりました。
※①九十九は土佐湾の別名だそうです。
※②三菱の源流は九十九商会にあるとされているため、九十九商会が発足した明治3年が三菱の創業の年とされています。
明治4年、岩崎弥太郎は土佐藩少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者になりましたが、明治4年7月の廃藩置県により、土佐藩が廃止されたため、土佐藩少参事の職を失うことになりました。
その際に、岩崎弥太郎は、後藤象二郎と板垣退助から説得され、九十九商会の経営を引き受けることになりました。これが実業家岩崎弥太郎の出発となっています。
九十九商会は、藩船3隻の払下げを受け貨客の運航にあたりました。
明治5年1月には、九十九商会から「三川商会」と改称しました。この時、岩崎弥太郎は社長となっていませんが、その理由ははっきりしません。
明治6年3月、岩崎弥太郎は、三川商会の経営責任者となり、社名も船旗の三つの菱形にちなんで「三菱商会」と改称しました。明治7年春には、本店を大阪から東京の日本橋の南茅場町に移し、社名も「三菱蒸汽船会社」と改称しました。
三菱が大きく発展するきっかけとなったのが台湾出兵の際の軍事輸送でした。
少し時間をさかのぼりますが、明治4年に台湾に漂着した琉球島民が殺害される事件があり、その処理を巡って日本は清国と揉めていました。そして、ついに明治7年4月参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官に、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し台湾出兵準備に入りました。
台湾出兵にあたり日本には輸送船がないので英国や米国の船会社による兵員の輸送を想定していました。しかし、英米とも局外中立を理由に協力を拒否しました。
そこで、やむなく政府は日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託することにし、大型船を急遽購入しました。ところが、日本国郵便蒸汽船会社の回答ははっきりしたものではありませんでした。日本国郵便蒸汽船会社は、軍事輸送に関わりあっている間に、三菱に沿岸航路の顧客を奪われることを恐れたためでした。
この時に、西郷従道は3000名の部隊を率いて出兵準備を完了していました。そこで、台湾事務局長官であった大隈重信は、岩崎弥太郎を呼んで、協力を要請しました。それに対して岩崎弥太郎は、その場で即断しました。
「青天を衝け」でも、大隈重信が岩崎弥太郎に要請する場面がありましたね。
岩崎弥太郎の決断をうけ、政府が購入した船の運航も三菱に任せ、三菱は、兵員・武器・食糧等の輸送に全力であたりました。
台湾出兵は、マラリア病による500名ほどの死者が出ましたが、戦闘による死者はわずかで、台湾を制圧し、日本の勝利で終了しました。
この台湾出兵に協力したことにより、岩崎弥太郎は、大隈重信に接近し、政府との関係がより密接となり、一層大きくなることなりますが、それらは、今後の「青天を衝け」で描かれることでしょう。
最後に、大隈重信は「大隈重信自叙伝」の中で、台湾出兵が日本の海運業が大きく発展するきっかけとなり、そのポイントが岩崎弥太郎だったとして、次のように語っています。

「征韓論が破裂すると、征台の事が起り、一方には佐賀の乱を始めとして最後の西南の乱で、いわゆる内憂外患が相次いでこもごも至ったが、これがまた偶然にも我が国の航海業の発達を生むに至ったんである。話しは少し後(あと)戻りするようだが、我が国の航海業の濫觴を説くには勢い台湾征討の事と密接なる関係を有するので、重複の嫌いはあるが、ちょっとここで重て台湾征討の側面の事から説き及ばそう。
征台論の起りについては既に述べたが、いよいよ台湾に出兵と云うので、専(もつば)ら我輩がその局(担当の意)に当り、台湾事務局長官と云う大変な名前で、当時、我輩は大蔵卿をしていたので、台湾事務局を大蔵省の中においたが、トウトウ我輩自ら長崎まで出かけて行った。軍人連中も大分(だいぶ)伴(つ)れて来た。
兵を出すまでは我輩の責任だが、今日から考えると実に滑稽に思われるが、サア兵を出そうと言うのに船が一艘もないという始末だ。三千五・六百の兵を送り、これに兵器弾薬馬匹を送らなければならぬので、その頃としては大変なんである。ところか船がないんだろう。そこで色々苦心して、英米の船を借りるということにした。
ところが愈々(いよいよ)決ったと思うと、英米から、台湾は支那の領地だ、これに兵を出すは不都合だというので、英大使ハリー・パークス、米大使ジョージ・ビムガムを以て、英米は中立だというロ実で、船長に命じて船を出すことを中途で止めた。サア大変、愈々いよいよ絶体絶命という場合で、トウトウ我輩独断で、その頃太平洋通いをしていた米国の飛脚船等五・六隻を買うことにした。(中略)
江藤の乱平定したる7年〔1874〕4月、征討司令官には陸軍西郷従道(台湾都督)、谷干城(参軍)、海軍は赤松則良(参軍)で乗り出したんであるが、偶然にもこの外国船を買って運送に用いたことが、我が国航海業の始まりとなり、その局に衝(あた)ったのが岩崎弥太郎で、これが今日の郵船会社の基礎をなしたんである。」
ちょっと余談ですが、「青天を衝け」で大隈重信が「〇〇であ~る」と言っていました。前述の文を読むと語尾に「んである」(赤字)をしばしば使っていることが確認できます。

