栄一の母えい、東京で死す(「青天を衝け」179)
「青天を衝け」第32回では、栄一の母えいが亡くなりました。えいが亡くなったのは、明治7年1月7日のことです。1月7日ですから七草の日です。
栄一は、「デジタル版渋沢栄一伝」に収録された「雨夜譚会談話筆記 下」の「梅光院様に関する御思ひ出に就て」の中で次のように語っています。なお、梅光院というのは、母えいの法名です。
「梅光院様の死去は七年の七草の日であった。六年末に具合が悪くおなりになって、兜町の地震で焼けた元の事務所の所にあった家に住って居たが、御看病に不便なため、前にあった三井の有って居た家を借家しそこで看護婦をつけて御世話申した。私が大蔵省を罷めた事を大変心配なされて私の身に変異が起ったのだと思っておいでのようだった。明治四年晩香院(父市郎右衛門のこと)が亡くなられてお母さんも大変心細く思っておられた時だものだから、その上私の事を痛く心配になったのが、病気の原因だったようだ。母上を診察した医者は、はっきり記憶にないが多分猿渡常安という人だったと思う。この人は織田研斎後に猿渡盛雅という人の養子になった人である。お母さんは元来精神病の質があった。けれども御死去の直接原因はそのためではないので、その外に身体に変異が起り心臓か何かが悪くなってお亡(なくな)りになった。苦しまれるような事はなくにわかに死去なされたので、私の先妻(千代のこと)等が大変心配したが功を奏さなかった。ちょうど私はその頃大変忙しくて看護その他の事一切を妻にまかせて置いたから私としては満足な御世話を申上げる事が出来ずはなはだ遺憾に思っている。」
これを読むと、栄一は、母えいを東京に引き取ったものの、実際の身の回りの世話は千代がやったようです。
そのためか、栄一の長女穂積歌子が書いた「ははその落葉」のほうにより詳しく書かれています。
「この年明治6年冬の始、郷里なる祖母君(えいのこと)御心地さわやかならず見えさせ給うよし聞えけれバ、父母の君たち(栄一と千代)いと心もとながらせ給いて、海運橋の家にむかえとりまいらせ給いき。されどここも人の出で入りいとしげけれバ、御病にさわりもやせんとて、一町ばかりへだてたる所に、ささやかにて程よき家のありけるをおまし所とさだめて、母君(千代)にハ風(はちふう:八方の風の意味)の朝雪の夕ともいわず、常にその所に行きかよい給い、御ミとりに御心を尽させ給いけり。御病はじめはさばかりおどろおどろしく(恐ろしいと言う意味)も見えさせ給わざりけるが、年の暮の頃ようよう御つかれ増り行きて、かずかず尽させ給いける医療も終(つい)にそのしるし(験)なく、あくる明治七年一月七日、祖父君(市郎右衛門)の御跡追わせ給い。まだとりさらぬ門松は、やがてかえらぬ旅路の一里塚とぞなりにける。祖父君と同じ御よはいにて世を去り給いけるは、ことに深き御ちぎりとこそ思い奉らるれ。」
その後に、葬儀は血洗島で行われたことについても書いています。
「のべの送りは郷里にて取り行うべきなれバ、大人(栄一のこと)には、御柩にそいて血洗島におもむかせ給い。祖父君の御墓の傍に葬りまいらせ給いけり。」
栄一は、母えいの棺とともに血洗島まで行き葬儀を執り行い、父市郎右衛門の脇に埋葬しました。法名は梅光院盛冬妙室大姉といいました。(下写真がえいのお墓です。)

しかし、千代は看病疲れからか「れふまちす」にかかったため、参列できなかったと「ははその落ち葉」に書かれています。
※「れふまちす」とは「リウマチ」のことではないかと思います。
栄一は、多忙のため、なかなか血洗島に父母の墓参りに行けないため、父市郎右衛門と同じように、谷中の渋沢家の墓域に、明治16年11月7日に「先妣渋沢氏招魂碑」を立てています。この碑は現在は血洗島の中の家(なかんち)の敷地内に移転されています。(下写真)

栄一の母えいは非常に慈悲深い人だと伝わっていて、近所にハンセン氏病の婦人がいましたが、その婦人と通常の人と同じように付き合い、中の家(なかんち)近くの鹿島神社の大きな欅(ケヤキ)の根元にある泉の水を沸かした共同浴場にも一緒に入ったという話がよく知られています。現在大ケヤキは枯れてしまっていますが、大きな切株が残されていて、その根本には井戸枠が残されています(下写真)

その話を穂積歌子は、母から聞いた話として、「はは その落ち葉」で、次のように語っています。原文は、明治調で少し読みにくいので、読みやすいように変えました。
「中の家の祖母君(えいのこと)は慈悲の心が大変深くて。貧しい人に物を恵むことを普段からこのうえない楽しみとしていました。同じ村に住む人の家が貧しくなっていくと、しばしばその家を訪ねて、そうせよこうせよとなどと諌めたり、教えたりしました。すべて他人の事に気を配り、自分たちの着るものや食べ物についてはどんなに貧しくても少しも気にせず、常に母君(千代のこと)にも叔母君(栄一の妹てい)にも、こうすることが人の務(つとめ)だからあなたたち心得ておきなさいとおっしゃられたそうです。
近くに住んでいる人で、不幸にも妻を先立たれた人が、血筋を確認せずに次の妻を迎えたものの、数年たって、大変な病気(ハンセン氏病のこと)にかかってしまいました。しかい、その人は、そのことを気にせず周りの人と交際しようとするのを、人々は疎んで話をすることさえ嫌いました。しかし、祖母君(えい)は大変哀れに思って、以前と替らず懇ろにその婦人を訪ねていた。訪ねると、その婦人は、『私の病気は鹿島の湯に入浴すれば効果があると思っているが、独りでは行きにくい』などと語りました。そこで、家族でさえ連れていってくれないことを可哀そうに思って、それであれば、私と一緒に行こうと言って連れて行ったそうです。ところで、鹿島の湯というのは。母君(千代)が生まれた手計村の鎮守鹿島明神の社頭に永年経った欅の大樹あって、その根が空洞となっているが、その中に古い井戸があり、その水を汲んで風呂をたてていましたが、神様の御利益で万病が癒えるという霊験があって、毎日病人が大勢やってきて入浴していた湯です。
さてそこに行くと、先に入浴している人々がいましたが、その人々は、みんな顔を見合せつつ、急に風呂から出て帰っていってしまい、残っている人は一人もいなくなってしまったそうです。
中の家(なかんち)の人々は、あとからこれを聞いて、『かたい(ハンセン氏病にかかった人)と一緒に入浴するというのはとんでもないことだ。』『汚らしいということを知らない人だ』と言う下僕もいたそうです。
しかし、尾高の伯父君(尾高惇忠)が中の家(なかんち)に来た時に、この話を聞いて、悪口を言った人たちに『自分の後世が良くなれということではなく、ひとえに不幸せな人が幸せになって欲しいと真心から出るありがたさは、奈良時代の光明皇后にも勝ることだと思う』と言ってたしなめました。『この話を尾高の伯父君(尾高惇忠)が語り聞かせてくれたことがあった』とある夜母君(千代)の話に聞いたことがありました。」
えいは「青天を衝け」の第1回から「あんたがうれしいだけでなくみんながうれしいのが一番なんだで」と教えてくれていました。(第32回で回想シーンがありました)
栄一は、明治9年、身寄りのない子どもや老人を養うための施設である東京養育院の院長に就任し、亡くなるまで50年余りの間、院長を続けました。その東京養育院との関係が始まったのは母えいが亡くなった明治7年でした。栄一のこうした貧しい人や困った人に寄り添う心は、母えいから受け継いだものだと思われます。

