佐々木勇之介とシャンドの算盤競争(「青天を衝け」180)
「青天を衝け」で、第一国立銀行の会議室らしき場所で、第一国立銀行行員の佐々木勇之介と簿記を教授するシャンドとが、筆算と算盤で計算競争を行い、佐々木勇之介が勝つ場面がありました。
この場面は、痛快でおもしろいストーリーした。そのため、この話は創作ではないかと思われた方もいるかと思いますが、この話は実話です。そこで、今日は、佐々木勇之介とシャンドについて書いていきます。
ここに出て来る佐々木勇之介は後に第一銀行の2代目頭取となる人物ですが、 栄一は、デジタル版「実験論語処世談」の「佐々木勇之助氏の出身」の中で、次のように書いています。
「佐々木氏はまた珠算にかけては珍らしい技量を持った人で、銀行の実務を行員に伝習させるため招聘(しょうへい)した元横浜の東洋銀行の書記であった英人シャド氏が切りに筆算の利益を挙げ、珠算の不利を説いた際に、論より証拠だというのでシャンド氏の筆算と珠算の方からは佐々木氏が出て実地計算の遅速を競争したこともあるが、その時にも佐々木氏が勝って、シャンド氏は珠算は読み手と算手と二人がかりだから勝つのは当然だなぞと敗け惜みを言ったほどのものである。」
「青天を衝け」で、シャンド氏が算盤は二人がかりだから勝つのが当然と言っていましたが、この場面も実話だったのです。(赤字部分参照)
ここに出てくる佐々木勇之介は、後に第一国立銀行の2代目頭取となった人物です。
佐々木勇之介について、前述のエピソードを語る前に、その経歴を次のように書いています。
「旧幕臣で五千石の麾下であった浅野美作守の家来に当るものの息子であったのだが、私が明治6年第一銀行を開業した際に銀行の方へ特に入れたのでは無いが、政府の為替金を取扱う御用方へ算筆の掛として入って居られた人である。当時、第一銀行には四五十名の行員があり中には学校関係の出身者もあったが、佐々木勇之助氏はその間に立ち交って、頗(すこぶ)る敏捷に立ち働くのみならず、また甚(はなは)だ謹直であって、成績が学校関係の人々よりも遥(はるか)に良好であったものだから、私は数の多い行員中より、特に佐々木氏に眼をつけたのである。」
この後、佐々木勇之介は栄一の薫陶を受けて、第一銀行の帳簿課長に昇格し、明治29年第一銀行取締役兼支配人、明治39年総支配人となりました。そして、大正5年渋沢栄一の引退すると、栄一の跡をうけて、頭取となり、昭和6年(1931)に頭取を引退し相談役となり、昭和18年まで相談役を続けました。
その佐々木勇之介の古希お祝いに第一銀行の行員たちが大正15年に寄贈したのが清風亭です。元々は、世田谷区の第一銀行の保養施設の清和園内にありましたが、現在は、深谷市に移転されています。清風亭については下記ブログで書いてあります。
筆算を主張したシャンドは、あまり知られていませんが、イギリス人銀行家で、明治政府に雇われた「お雇い外国人」で、日本の銀行制度確立にあたって様々な助言を与えてくれるとともに銀行簿記を伝えてくれた人です。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』に収録された「竜門雑誌 第466号」の「旧友アーラン・シヤンド(青淵先生)」に詳しく語られていますので、次をお読みください。
「私が大蔵省の役人をして居た時に、新しく銀行条例を作り新銀行の制度や組織の基礎を定めることに努力したことは、前にも話したと思いますが、当時は何分帳簿の付方を知らないし、伝票の意味も未だ明瞭でなかったのであります。又銀行の業務たる預金の取扱とか、割引手形の制度に至っては殆ど雲を掴む様な有様であったので、こんなことでは困るという所から、大蔵大輔あった井上(馨)さんが主張し、玆に銀行の実務に通じた外人を雇うことになり、選ばれて聘せられたのが英国人シヤンド氏でありました。確か明治五年のことと記憶して居ります。誰の周旋でどういう順序で大蔵省へは入ったのか、その辺の事情は詳しく知りませんが、その時分横浜にあったチヤータード・バンクの人で、その銀行での地位はどうであったか、とにかく銀行業務を心得た実際家であって、学者とはいえないように思えたが、事務には熟練した人で、年齢は私より二つか三つか下でありました。斯様(かよう)な訳でシヤンド氏と私とは明治五年頃から直接の交渉があった。(中略)
シヤンド氏を大蔵省で傭ったのは、この時(国立銀行条例公布のころ)のことであって、なにもかも新らしいことのみであるから、並大抵の苦心ではなかった。例えば今の決算報告書のことを、考課状と称えたが、これは書経であったと思うが「三年にして課を考す」とあるからというのでそう決め、また銀行と云う名称などもバンクという言葉を訳すのに種々協議したが、金行と呼ぶのも変だと云うことと、東洋では銀を本位貨幣として居る処から、銀行と定めたような訳であります。
その後私が第一銀行の経営に任ずるようになってからも交渉があり、殊(こと)に簿記のこととか、貸借対照表や決算報告の作り方とか、また為替、割引等の実務について、銀行の若い人々に教授をして貰いました。第一銀行の現頭取佐々木勇之助君や長谷川一彦、熊谷辰太郎の諸君は親しく教を受けた人々であります。」
シャンドは、銀行制度確立のための助言の任務が終了し、明治10年にはイギリスに帰りました。
その後も、栄一や佐々木勇之介との交流は続き、栄一が、明治35年にアメリカを訪問した後ヨーロッパに渡った際、ロンドンででシャソドの親切なもてなしをうけています。また、大正5年に栄一が第一銀行頭取を退任し佐々木勇之介が頭取に就任しますが、そのことを佐々木勇之介がシャンドに知らせると、シャンドから佐々木勇之介や渋沢栄一に丁寧な返書が届いています。

