栄一、小野組破綻による危機を免れる(「青天を衝け」181)
「青天を衝け」第33回では、小野組の破綻から始まった後、一気に時代が進み、三野村利左衛門だけでなく西郷隆盛や大久保利通までも亡くなってしまうまで話が進みましたが、今日は、冒頭に描かれていた小野組の破綻について書いていきます。
小野組が倒産の危機との情報を井上馨から得た栄一は、大いに悩んだ末、第一国立銀行を守ることとして小野組に担保の提供を要請しました。「青天を衝け」では小野善右衛門が駄々をこねていましたが。史実では、栄一は、小野組の小野善右衛門、古河市兵衛、行岡庄兵衛と協議し、小野組側から、第一国立銀行には迷惑をかけないという約束を取り付けました。そして、小野組は、可能なかぎり多くの担保を第一国立銀行に差し出しました。
そして、小野組は、明治7年11月20日に大蔵省に閉店の願いを出しました。ついに小野組は倒産ということになったわけです。
小野組の担保提供を受けていたため、第一国立銀行は、ほとんど被害を受けずにすみました。
この時の事情を、栄一は、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第253号」の「明治五年の財界▲小野組の破綻と第一銀行」の中で次のように語っています。
「7年が過ぎて突然大打撃を受けたのは彼の小野組閉鎖の影響である。
小野組は三井と同じくその同族が集って今の合資会社的の組織で経営して居たがその事業は各地の為替御用、県の出納を始め一方には生糸もやる鉱山もやるという様な風に盛んに手を伸して三井と競争をする。その実力は三井より乏しいのに三井より派手に頗る華美なる経営をした。又一方の古河市兵衛は矢張り小野組の片割れで生糸・鉱山・種紙・米・こういうような商売をやるというので本店の方で銀行事業為替方をやって居るのと本店以外に古河の手でやる仕事と双方に向って第一銀行は大分融通して居った。ところが7年の秋頃から段々金融塞迫して担保品もなくなって来るようになって遂に支払を停止するの悲運に迫った。
もしこれが不都合なことになると小野のために銀行は潰れて仕舞うことになる。小野を助けようか三井の方では小野のために銀行を潰されては困るという。小野を見殺しにして仕舞うがよいか。銀行の成立については重(お)もなる株主であるから商売としてもまた銀行の為に謀っても見殺しにするようなことをしてはならぬ。実は中に入って取捨進退に頗(すこぶ)る困った。その時にはむしろ政府の役人をして居ったらこんな苦しみはなかったろうと思うた位であった。
明治6年に銀行者になって総監役の位地に立って頭取から支配人、甚(はなはだ)しきは小使までもするという位に勉強して、政府に対することは私が一人で引受け三井と小野の調和までもせねばならぬ。皆な一人で処理して来た。これもまずそれ程困難ではなかったが小野組の挫折という場合には大(おおい)に心配した。
それでどうしても立行かねば早く諦めさせるより外はないと思って小野善右衛門、古河市兵衛その他の人と親密に相談をして銀行の方には漸(ようや)くにして完全なる担保を提供させたが小野組はどうしても計算が立たぬというので大蔵省に歎願書を出して終(つい)に支払を停止した。
それがために銀行ではそれが処分の済むまでは金融が固定して一時は困りはしたけれどもその時には小野組との取引は総体で百五六十万円あったように覚えて居るが、その中僅かに七千幾らの損失があったのみで甚(はなは)だしい迷惑は受けずに済んだ。これが創業早々の大打撃で、その時分には殆(ほとん)ど銀行は潰(つぶ)れはしないかと思われる位であった。しかし結局はえらい迷惑を受けずその為に利益配当が出来ぬということもなくてその損害もその時に償却して公明正大な計算を発表することが出来たのである。」
小野組が破綻したのにもかかわらず、第一国立銀行が倒産せずに済んだのは、小野組から担保の提供があったからです。特に、「青天を衝け」に登場した小野組の糸店の責任者であった古河市兵衛が真摯に対応してすべての財産を担保として提供してくれたためです。下写真が古河市兵衛です。国立国会図書館「近代日本人の肖像」から転載させていただきました。

古河市兵衛の伝記「古河市兵衛翁伝」の中に、当時を思い出した栄一の談話が載っていますので、それを引用します。
「渋沢氏は小野善右衛門に会見した翌夜、柳橋の舛田屋に翁(古河市兵衛のこと)を招いた。その時の有様は、次の子爵(栄一のこと)の談話に悉(つく)して居る。
『たしか、それは前夜に小野元方の連中と相談をした話の続きでした。私は古河君に対して、数年の懇親でお互に力を戮(あ)せて遣(や)って来たが、残念ながら今は小野の経営ではいけなくなった。如何(いか)に君が糸店を維持する積りでも根本の小野組が潰(つい)えれば共に潰(つい)えざるを得ぬ。第一銀行も担保が十分で無いので維持し難いかも知れぬが、どういうようにして呉れるかと打明け話をした時に、古河君は、小野組が倒れて私の信用が無くなった以上は、貴君から金を借りて居る訳にも行かない、私も覚悟しましょう、銀行には決して迷惑を掛けますまい。私もここまで遣って来て、今倒れるのは如何にも残念であるが致方ないと真に歎息されて、男泣きに泣かれた。これまで、古河君の期する処は、渋沢が第一銀行に居る。これに相当の信用を有って居る故、自分が発展して行くだけの財源はある。それを利用して鉱山であれ、商売であれ、各方面に無限に力を張ろうとするに在った。それが事(こと)志と違って自分の翼を収めなければならぬのですから、古河君としてもこれほどの失望落胆は無い。私もそれに感じて声は放たなかったが、共に落涙した。』『その後の古河君の態度は実に見上げたもので、糸店関係の財産はすべて担保に提供し、自分は、裸一貫で追ひ出されたという世間の比喩の通りに、実に情けない有様に陥って、小野組の跡始末をしたものです。』
この談話にある通りに、翁は直ちに糸店の資財中、米穀、岩鉏、公債、株券、院内阿仁鉱山等を第一銀行に提供し、渋沢氏に対する言責を全うした。第一銀行創立直後の危機はかくして無事に経過するを得た。」
古河市兵衛と担保提供について話をしたのは、「青天を衝け」では、第一国立銀行の部屋でしたが、史実では柳橋の枡田屋というお店だったようです。
こうして、小野組に対する貸付金についてはほぼ全額の担保の提供がされたため、第一国立銀行は、小野組倒産による被害を蒙らずにすんだのでした。
古河市兵衛は、「青天を衝け」に登場しているので、今後の「青天を衝け」で描かれるかもしれませんが、後に、本格的に鉱山経営に乗り出し、足尾銅山を入手して、それを大きく発展させ、後に古河財閥を築きます。
古河市兵衛が大成功した陰には、小野組破綻の際に、古河市兵衛が誠実な態度で対応したことに感銘した栄一の支援がありました。
それについても、栄一は、前述の「古河市兵衛の人物」の中で語っていますので、参考に書いておきます。ご興味・お時間がある方はお読みください。
「明治7年褌(ふんどし)一貫で小野組を出た古河は、その後杳(よう)として消息を絶って居ったが、約二年ばかり経ってからの明治9年頃、一日飄然(ひょうぜん)私のところへ訪ねて来て、北海道で鉱山業を経営(やっ)てみたいから、資本を五万円ばかり貸してくれとの事であったのである。私は古河を深く信じて居ったものだから、当時の五万円は昨今と違い、可なりの大金であったが快く貸与し、古河はこれによって多少の利益を挙げ、更に足尾銅山を経営したいというので、古河と相馬と私との等分出資により、明治12年10万円の合資会社を組織し、足尾銅山を古河にやらせることにしたのである。しかるに、明治24年に到り、古河は単独で経営したいからと申し出で、私とても営利の為に出資したわけでなくただ古河を助けたいために出資したのであるから悦(よろこ)んでその申出に同意し、爾来(じらい)足尾銅山は古河一家の経営に移り、以て今日に至ったのだが、古河は鉱山の事に関し殆(ほと)んど神の如き智能(ちのう)があって、その観(み)るところに些(いささ)かも過誤の無かったものだ。」
小野組破綻による第一国立銀行の危機に際して、古河市兵衛が、第一国立銀行に担保提供をしなければ、その後の栄一の支援があったかどうか微妙だったかもしれません。この話を聞いて、私は「情けは人のためならず」ということわざを思い出しました。

