三井を救った井上馨と三野村利左衛門(「青天を衝け」183)
小野組の破綻により第一国立銀行は倒産の危機に陥りました。しかし、栄一の必死の努力により、それを免れました。
小野組が破綻したのは、政府が小野組が預かっていた官金に対して抵当を増やすように要求したのがきっかけでした。この官金に対する増抵当は、小野組だけでなく、三井組や島田組に対しても要求されたものでした。そのため、三井組も島田組も抵当を準備するのに大変苦労しました。島田組は、結局抵当を準備できず小野組より少し遅れた明治8年2月に破綻することになりました。しかし、三井組だけは破綻することなく存続できました。
三井組が破綻を免れることができた要因は①井上馨が事前に情報を伝えたこと②それを受けて三野村利左衛門が必死の努力をしたことにあります。
このことについては、「青天を衝け」では全く描かれていませんでしたが井上馨と三野村利左衛門に関連することですので、今日は、このことについて書いていきます。下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」から転載させていただきました。

井上馨が栄一に小野組の危機の情報を伝えたのとほぼ同じ頃に、三野村利左衛門にも同じような情報を提供しています。
「世外公事歴 維新財政談」の中で、井上馨自身が次のように語っています。
「それで三野村利左衛門という者に、貴様大蔵省の御用達をして居って、小野組と一緒にやって居るが、今どうなって居るか知らぬけれども、まだ元の通りに相違ない、大蔵省から五十万円を三井組小野組に預ける、そうすると三井組小野組の連帯責任という事が、俺は大蔵省に居た時からの懸念ぢゃったが、どうもこの小野組はあぶないぞよというのだ。これを三井のその時、主にやり居った三野村という者に忠告した所が「あぶないという事は如何(いかが)でしょうか」「悪くすると倒れる」・ ・「それはまあ多少ありましょうけれども、そんな懸念はない」といって、なかなか俺の言う事を利左衛門が信じない。それから渋沢にも、それは言うた事がある。それは渋沢も覚えて居るという。それで遣り居った所が、さあ果して小野組がどうも行けなくなったのだネ、その頃には大隈が大蔵省をやり居った。私が退いてから:::それで大蔵省で、これは三井も共潰れになる、どうも三井が預って居るのが何ぼ、小野が何ぼと区域を付けぬと、何方(どちら)も共潰れになる、大蔵省から百万円預けて居るに対して、片方の小野が払えなければ三井が払うという事になると、容易ならぬ事になるから、この区別を付けてやってはどうかという事を、大隈に注意してやった事がある。それから大隈がそれは実に尤(もっと)もじゃというから、その区別をつけた。その時分に始めて利左衛門も成程これは容易ならぬ事に陥ると言った事がある。それで是(これ)はまず区別が付いて、三井の方へは波及はしなかった。」
この井上馨の思い出語りによれば、小野組が危ないということを三野村利左衛門に教えたが、最初、三野村利左衛門は理解しなかったが、やがて危ないということを認識するようになったと語っています。
さらに、教えるだけでなく、井上馨は時の大蔵卿の大隈重信にも、小野組と三井組の預り金を明確に区別するように注意しています。その忠告を聞いて大隈重信は、預り金の区別をしています。
これについて、「小野組の研究」で宮本又次は次のように書いてあります。
「小野組の破綻は当路者によって、増抵当令以前、すでに察知されていたといってよい。そして、この倒壊の予測が、井上から、三井の三野村と第一銀行の渋沢にひそかに洩らされていたわけで、小野組の破綻を見通して、その累を三井に及ぼさぬために、井上の示唆により、大隈大蔵卿の手で、事前に預り金の区別がなされたとも考えられる。あるいはうがって考えると、7年10月の増抵当令は小野組および島田組の倒産を見越してだされたとも思われる。」
三井組が、倒産を回避できたのは、井上馨の配慮によるものと言えるのですが、井上馨がこのように三井組ととりわけ親密であったことは、これ以前からもよく知られていたことでした。
井上馨の三井贔屓(びいき)を皮肉って西郷隆盛が「三井の番頭さん」と呼んだことも有名な話として残されています。
この話は「三井事業史」によれば、岩倉具視を全権大使とする使節団の送別会の席での話で、佐々木高行の日記に「西郷大先生、井上馨ヘ盃ヲ以テ三井ノ番頭サン差上ルト相廻」と書いてあるそうです。
このように、従来から非常に親密であったうえで、この増抵当と小野組の倒産という三井組にとっての非常事態の際に、三井組に特別の配慮を見せたことにより、井上馨は、三井家の家政および三井組の営業に関して絶大な影響力をもつようになりました。そして、ついに明治33年制定の三井家憲においては、三井家終身顧問としての地位を明記されるようになり、死去するまで三井の経営、人事に多大な影響を与えることとなります。
こうして、井上馨から小野組が危ないという情報と増抵当の情報を早めに入手した三野村利左衛門は、三井組の官金に見合う抵当を準備しました。この準備は大変なものだったと思います。しかし、詳しいことはハッキリしていないようです。
「三野村利左衛門伝」でも、「どのようにして補充したかは、その具体的な経緯は記録を欠いており判然としないが、利左衛門らの奔走によって、事前に増質相当額の公債・地券・株券等を差し入れて、無事に所定の増抵当を提出して、破局を免れることができたのである。」と書いてあります。
とはいっても、三野村利左衛門の動きは、必死のものだったのだと思います。
その努力の大きさは、「三野村利左衛門伝」によると、この一件のほぼ落着した明治8年4月三野村利左衛門に対して三井家は長文の賞状と家祖伝来の掛物一幅を記念に贈ったそうで、その長文の賞状の中に、「日夜寝食を忘れ身命をなげうって奔走した」とか「断腸之辛苦」といって語句が入っていることで推測できます。
おそらく、三野村利左衛門は、自宅に帰ることをせず三井組に泊まり込み何日も徹夜をするなど必死になって頑張ったのだろうと思います。三井組が生き残れたのは、この三野村利左衛門の奮闘もあったのでした。

