栄一、蚕卵紙を焼き捨てる(「青天を衝け」184)
「青天を衝け」第33回では、栄一、喜作と尾高惇忠などが蚕卵紙を焼き捨てるシーンがありました。
この事件は、渋沢栄一について書いた本のほとんどが取り上げていませんので、この事件を承知している人は少ないのではないでしょうか。しかし、この話は、後述するように史実です。こうしたあまり知られていないエピソードまで描く「青天を衝け」は、改めて凄いと思いました。
この事件は、明治7年10月~11月に起きた事件です。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の栄一からの勧業頭河瀬秀治宛の手紙に次のように書かれています。なお現代文調に変えてあります。
「(蚕種貿易について)何らかの方法がないかご下問があったため、私の考えを申し上げたところ、速やかに実施するべしとの内命をいただいきました。実際は勧業寮から資金を支給くだされたものの、名目は民間の取り扱いのようにすることとのご趣旨も承り、早速の横浜港のおもだった商人たちと相談し、お許しいただいた方法により、10月9日から買い入れ焼き捨てを始め、11月20日の終了まで、日数42日、買入蚕種数44万8413枚、代金8万4816円29銭5厘となりました。」
つまり、栄一は、勧業寮の局長の河瀬秀治と打ち合わせたうえで、明治7年10月9日から11月20日まで、蚕卵紙を買い上げて、焼却してしまったのです。なお、この報告の手紙には、栄一が自分で焼き捨てたとは書いていませんので、「青天を衝け」でのシーンのように焼き捨ての作業自体を直接指揮してはいなかったと思います。
同じくデジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の明治7年10月14日の「郵便報知新聞」の「横浜港蚕種貿易の近況」の記事は、より詳しく書かれています。
記事自体は明治調の長文ですのでポイントとなる部分を現代文調に修正して書いてみます。
「発起人より横浜新聞紙にてその買潰しをなす所以(ゆえん:りゆう)を稟告(ひんこく:告げ知らせること)し、既に本月9日より弁天道三丁目の横町にてその買入をなすにつき、下等の蚕種を所持する者は多人数同所へ売込を申し来たり、右の場所において9日10日11日までの買入高およそ五六万枚に至たれり。右の買入れたる蚕種は毎日夕方六時頃よりこれを荷物車に載せ、蚕種は荒縄にて束ねたるままなり絡繹(らくえき:絶え間ないこと)と弁天通太田町を通り、元吉原の岩亀という妓楼の跡空地においてのこらず焼棄(やきす)てたり、この時見物の者は日本人・外国人どもおよそ千を数(かず)うにいたる。」
この記事を読むと、横浜の元吉原の岩亀楼(がんきろう)の跡地で焼き捨てたようです。ここでいう元吉原というのは、現在の横浜公園にあった横浜で最初に開かれた港崎遊郭(みよざきゆうかく)のことと思われます。港崎遊郭(みよざきゆうかく)は慶応3年(1867)の豚屋火事で焼失し、移転しています。そのため、元吉原と呼ばれたのではないかと思います。港崎遊郭(みよざきゆうかく)で最も有名な遊女屋が岩亀楼でした。
「郵便報知新聞」は、前島密の企画により、明治5年(1872)に創刊された新聞で、当時、「青天を衝け」に登場していた栗本鋤雲が主筆(編集主任)でした。
なお、「青天を衝け」では福地源一郎も登場していましたが、この頃、福地源一郎は「東京日日新聞」の主筆でした。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の明治7年10月17日東京日々新聞には、次のような記事があります。
「数日前より報告せし如く東京横浜の巨商六人憤発して今年蚕種紙製造高の甚(はなはだ)だ多くして価格すでに地に落たるを挽回し、国内一般蚕種商人の敗北を助け御国産の声価を保たんと、日々大金を散して数万の蚕種紙を買ひ集め元吉原の焼跡において惜し気も無く焼き捨るハ実に豪義なる者なり。」

