大久保利通と五代友厚は碁の好敵手だった(「青天を衝け」185)
「青天を衝け」で、大久保利通と五代友厚が碁をやっていましたが、史実でも大久保利通と五代友厚は碁敵であり好敵手でしたので、しばしば碁盤に向き合っていました。
大久保利通は、島津久光の寵臣でした。しかし、島津久光が国父となって薩摩藩の実権を握った当初は、大久保利通はまったく久光とは関係がありませんでした。
そこで、島津久光が碁好きだという情報を得た大久保利通は、島津久光がよく訪ねる吉祥院の住職に囲碁の教授をお願いして、吉祥院住職から島津久光を紹介してもらい、それから島津久光に親しく仕えるようになりました。
こうしたこともあることから大久保利通は、囲碁を趣味としていました。

一方、五代友厚は、後述のように、多趣味でしたが、第一の趣味が囲碁でした。

明治6年の政変で、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平など多くの参議が辞任しそれぞれの国に帰りました。さらに明治7年の台湾出兵を機に、木戸孝允が帰国してしいました。そして、政府を支えるのは大久保利通だけという事態になりました。
こうした事態を憂慮した薩摩出身の五代友厚、長州出身の伊藤博文・井上馨たちが、木戸孝允、板垣退助たちの政府への復帰を画策します。
そうして、明治8年1月、数度にわたる関係者の会談が行われました。これが大阪会議でした。大阪会議については「青天を衝け」では、ナレーションだけでした。
この会議により、大久保利通が木戸孝允、板垣退助の要望を受け入れる形で合意し、木戸孝允、板垣退助が政府に復帰することになりました。
この会議のため、大久保利通は、明治7年12月から約2ヶ月間、大阪に出張しました。この時に、滞在場所としたのが五代友厚の大阪の自宅(現在、大阪市西区靭本町1-8-4大阪科学技術センター)でした。
大久保利通日記によれば、明治7年12月24日に東京を船で出発し、12月26日に神戸に着きました。12月28日の日記には次のように書かれています。
「今朝6時に神戸港に着く。黒田清隆が船まで迎えにきて、一緒に上陸する。布引に立ち寄り、11時45分の車により大阪に向かう。五代友厚(の屋敷)を訪問する。今晩、税所篤(さいしょあつし)がやってきて囲碁をする。(税所は)当家に滞在する。」
これを読むと、大阪の五代邸に到着早々に、親しくしていた税所篤(さいしょあつし)がやってきて、早速囲碁をしています。
そして、12月27日の日記には「五代友厚と囲碁」と書いてあります。さらに12月28日、30日、31日と囲碁の記録が残ります。そして明治8年元旦、2日には「終日囲碁」と書いてあります。
このように日記には、ほぼ毎日、囲碁をやったと書かれています。大久保利通は時間があれば囲碁をしていたのだろうと思われます。
宮本又郎著「五代友厚伝」によれば、五代友厚は、大久保利通がやってくることになったので、わざわざ本因坊秀栄に教授してもらったそうです。また、「五代友厚伝」に五代友厚の趣味は、囲碁、乗馬、狩猟、絵画など多趣味だったと書いてありますが、その冒頭に囲碁が書かれていますので、囲碁が一番好きだったのだと思われます。
大久保利通は、五代友厚を大変信頼していたようです。「五代友厚伝」によれば、大久保利通と五代友厚は肝胆相照らす仲で、五代友厚は大久保利通に画策・献言をしばしば行い、世の人々は五代友厚を「大久保の智嚢(ちのう:知恵袋)」といい、大久保利通は五代友厚を「無二の盟友」としていたそうです。
五代友厚は、碁盤を囲んで、いろいろな献策を行っていたのでしょう。そして、大久保利通は、無二の親友の話をしっかりと聞いたのでしょう。「青天を衝け」の二人の描き方は、このような関係がよくわかるように描かれていたと思います。
それにしても、大久保利通が明治11年の紀尾井坂の変で暗殺された後、囲碁盤を挟んで向かい合っていた大久保利通が消えていく演出は非常に見事だと感じました。
大久保利通が暗殺された時、五代友厚はたまたま東京にきていました。暗殺されたとの急報を聞いたのは、五代友厚が朝食を食べている時でしたが、「しまった」と言い、玄関に出ると急に吐き気を催して、食べたものを吐き出してしまったそうです。

