岩崎弥太郎、西南戦争で大儲け(「青天を衝け」186)
「青天を衝け」第33回では、西南戦争や西郷隆盛の死がナレーションで終わってしまいましたが、西南戦争で岩崎弥太郎は大儲けをしています。岩崎弥太郎は、これからも「青天を衝け」に登場してくると思いますので、今日は、岩崎弥太郎と西南戦争について書いていきます。
台湾出兵で、政府と非常に緊密な関係となった三菱は、国内の競争相手であった日本国郵便蒸汽船会社を駆逐し、国内で最大の海運会社となり、さらに、三菱の新たな競争相手となった外国の海運会社との競争にも勝利しました。
このように大きく発展してきた三菱がさら一層飛躍するきっかけとなったのが、西南戦争でした。そこで、まず西南戦争の概略を書いておきます。
明治10年2月15日、西郷隆盛は、1万3千の鹿児島士族を率いて鹿児島を発ちました。これに九州各地の1万におよぶ反政府士族も呼応決起し、行軍途中に参加した兵を含め、西郷軍の総兵力は3万余でした。
これに対して、政府は2月19日、有栖川宮熾仁(たるひと)親王を征討総督に、陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義を参軍に任命し指揮をとらせる征討軍団を派遣しました。
西郷軍は、2月22日、熊本城にある熊本鎮台を攻撃しましたが、司令長官谷干城以下の守備軍は懸命に防御し西郷軍の攻撃を退けたため、西郷軍は包囲作戦に転じました。
装備と人員に勝る政府軍は、激戦となった田原坂の戦いに勝利し、4月15日、熊本城の包囲を解くことに成功しました。熊本城を陥落できなかった西郷軍は、それ以降は守勢に回り、日向に転じて再起を図ろうとしましたが、人吉、都城で敗れ、残った西郷軍は西郷隆盛を擁して政府軍の包囲を脱出、鹿児島に戻り城山に籠り最後の抵抗をしました。そして、ついに9月24日の政府軍の総攻撃により城山も陥落し、西郷隆盛は自刃し、桐野利秋、村田新八、別府晋介らも討ち死にし、西南戦争が終了しました。
この西南戦争の際に、政府軍の兵員、弾薬、食糧の輸送を担ったのが三菱でした。
人物叢書「岩崎弥太郎」(入交好脩著)には、当時、「西郷は前門の虎なり、岩崎は後門の狼なり」と言われ、「西南の役は、三菱の向背によって成否が決定する」と言われる程だったそうです。それだけ、三菱が重要視されたということです。
これほど重要視された三菱の動向ですが、岩崎弥太郎は、迷うことなく、政府軍の軍需物資の輸送に全社をあげて取り組み、一般の定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込みました。そして、政府軍の勝利に大きく貢献したのでした。
この西南戦争で三菱がどれだけ儲けたかについて1千万円と書いてあるものもあるそうですが、「岩崎弥太郎伝」には7,8百万円と書いてあります。しかし、人物叢書「岩崎弥太郎」では、「およそ140万円程度」ではないかと書いてあります。
三菱UFG信託銀行のホームページに明治の1円が現在価値に換算するといくらになるかという記事があります。
明治34年の物価指数からは、1円が1,490円の価値、明治時代は小学校の教員の初任給からは1円は2万円もの価値、明治元年の白米から換算すると1円は4,760円程度の価値があると書いてあります。
この中で最低の1円=1490円としても140万円は約2億円の利益となります。1円の価値が2万円とすれば、利益は28億円となります。
いずれにしても、三菱は、西南戦争で膨大な利益を得たということになります。
岩崎弥太郎は、こうした利益を得たうえで、さらに政府に、汽船の増加の必要性を訴え、政府の支援を取り付けています。
これにより、三菱は、国内の海運業界を牛耳ることになります。
これに対して、三菱以外から、反発が強まり、栄一や三井組などが協力して海運会社を設立して三菱に対抗することになります。これについては、これからの「青天を衝け」で描かれるかもしれませんので、描かれた時に改めて書きます。
岩崎弥太郎は、西南戦争で儲けた利益を、海運のほか鉱山開発事業など三菱のさらなる発展に資する事業に投資するとともに、明治11年に、東京に大きな屋敷を三つ購入しています。現在の「旧岩崎邸庭園」「清澄庭園」「六義園」の三つです。それぞれが、江戸時代は大名屋敷であったものです。それを同時期にまとめて購入するのですから、岩崎弥太郎の財力のすごさに驚かされます。
現在の「旧岩崎邸庭園」は、もともとは高田藩榊原家の江戸屋敷でした。明治維新後、桐野利秋の屋敷となり、桐野が薩摩に帰った後、舞鶴藩の旧藩主牧野弼成(すけしげ)のものとなっていたものでした。岩崎弥太郎は、明治15年に駿河台から転居し、明治18年2月、この屋敷でなくなりました。現在の旧岩崎邸庭園にある洋館は明治29年に、三菱財閥の三代目である岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男)により建てられたもので、建築家ジョサイア・コンドルが設計しました。

二つ目が、現在の清澄庭園です。清澄庭園は、江戸時代は、久世大和守の下屋敷でした。ここを購入した後、巨石・名石・庭木を全国から集め、「深川親睦園」と名付け三菱の社員の親睦の場としました。詳しくは、下記ブログをご覧ください。
三つ目が六義園です。六義園は五代将軍綱吉の側近柳沢吉保が造った3万余坪の回遊式築山泉水庭園で、幕末には、大和郡山藩下屋敷でした。詳しくは、下記ブログをご覧ください。

