栄一、東京商法会議所を設立する(「青天を衝け」187)
「青天を衝け」第34回、東京商法会議所、東京養育院、岩崎弥太郎との会合、グラント将軍接待等々、話題が満載でした。それぞれについて、これから順に書いていきますが、東京商法会議所(現在の東京商工会議所の前身)の設立について「青天を衝け」では簡潔に取り上げられていましたが、今日は、東京商法会議所の設立について少し詳しく書いてみます。
下写真は、「青天を衝け」紀行で紹介されていた東京商工会議所にある渋沢栄一の銅像です。

東京商法会議所が設立されたのは、明治11年のことです。東京商法会議所が設立された経緯は、「青天を衝け」でも描かれていたように、不平等条約であった安政5か国条約の改正を試みていた明治政府ですが、イギリスのパークスから、世論を集約する組織がないと反論されて、それに反駁できなかったため、そうした組織の設立の必要を感じ取った大隈重信・伊藤博文から依頼されたことによります。
栄一は、設立からだいぶ経った大正15年4月の講演で、設立当時の状況をデジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第451号」で次のように語っています。
「(東京商業会議所)の創立せられた明治11年から同39年まで、28年間会頭を勤めたから、以前は深い関係があつたというて差閊(さしつかえ)ない。そういう事情にあるので、此処に東京商業会議所が如何に変遷して今日に到ったかについてまたこれに関する私の感想を概略述べることにしようと思う。
抑も商業会議所は西洋諸国ではチエムバー・オブ・コムマース(※チェンバー・オブ コマース chamber of commerceのこと)と称し商人団体の総代たる人々が会議し、会議の結果一致した意見を発表する機関として生れたのである。商業会議所は何時(いつ)頃から創設せられたものか今よく記憶せぬが、とにか重要な機関として相当古くから組織せられていたのである。しかるに日本では、明治の初年には政治上、議会の必要は説かれていたが、商業会議所の方は未だ論ぜらるるまでに到(いた)っていなかった。ところが偶然東京商業会議所が創設せられるようになった。その事情は斯様である。(中略)
私は銀行業者であったけれど、前々からの関係で大隈侯とは常に親密に心安く往き来して居たが、明治十一年であったかと思うが、突然侯から商法会議所、今日の所謂商業会議所を作りたいと思ふがどうしたらよかろうか、と相談があった。恰度英米などにはチエムバー・オブ・コムマースというものがあって国家の法律に依らず、一般商人の申合せで団体組織を為して事実立派にやって居るから、私は充分やれると答えたのである。すると愈々(いよいよ)やるならば政府で年千円位の補助をするということであった。
何故(なぜ)かくも至急に商法会議所の設立が必要となったかというに、条約改正に当って、我国当局者が彼の英公使パークスに交渉して『世論が許さないから改正されたい』といったところ、『日本に世論があるか、商人が申立てるというけれども何によって言わるるのか、日本に多数の集合協議する仕組がないではないか、個々銘々の違った申出では世論ではない』との意味で、かえって反駁して来た。言葉は違うであろうが、そういう意味で論戦したことと想像された。
そこで条約改正に世論が必要である、世論を作る場所を形式的に作ろうとし、ここに商法会議所の創設となったのであった。私はこれに対し大いに力を入れ、益田孝・大倉喜八郎・渋沢喜作・小室信夫・福地源一郎・原六郎というような人々25人を仲間としてこれを創設した。(後略)」
こうして、栄一は、渋沢喜作・大倉喜八郎・三野村利助・福地源一郎・益田孝などと協力して東京商法会議所の設立を計画し、明治10年12月設立願書を東京府知事楠本正隆に提出し、翌11年3月12日設立認可を受けました。
そして、明治11年8月1日に、日本橋駿河町の三井銀行で初の集会が開かれ、栄一は、会頭に選出されました。
その他、第一副会頭に福地源一郎、第二副会頭に益田孝が選出され、内国商業事務委員に三野村利助、渋沢喜作、益田孝などとともに栄一も選出されています。外国貿易事務委員として、大倉喜八郎、益田孝、岸田吟香などが選出され、運輸及船舶事務委員には、岩崎弥太郎も選出されています。
東京商法会議所は、明治16年に東京商工会となり、明治24年7月、東京商業会議所となり、昭和3年1月東京商工会議所になりました。
栄一は、明治11年の設立当初から明治38年まで会頭として尽力しました。
東京商工会議所内には、「渋沢記念ミュージアム」があり、渋沢栄一の業績や東京商工会議所の歴史について展示説明してあります。今年の7月に訪ねましたが、その際の記事が下記です。「青天を衝け」紀行でも紹介されていましたので、ご覧ください。

