栄一、養育院院長となる(「青天を衝け」188)
「青天を衝け」第34回で養育院の話が出てきました。養育院とは、貧しい人、身寄りのない老人、孤児・捨て子などの窮民を収容保護する施設で、栄一が亡くなるまで関わりました。そこで、今日は、養育院について書いていきます。
渋沢栄一は、経済だけでなく、社会公益事業にも関与したことがよく知られています。その栄一が関与した社会公益事業の筆頭に挙げられるのが養育院です。
栄一は養育院の院長を死ぬまで勤めていたことから社会公益事業に真摯に取り組んだと言われています。しかし、その栄一でも、最初から社会公益事業の重要性を認識していたわけではないと、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「社会事業 第11巻第12号」の「子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会」の冒頭で次のように語っています。
「市の養育院に関係したのが私が社会事業に関係した始めでありまして、(中略)私が社会事業に入ったのは偶然の事からでありまして、決して高い理想や考えを以(もっ)て始めたわけではないので、真(まこと)にお恥しいことで御座います。」
ここで栄一が「偶然の事」と言っているのが、当時東京府知事であった大久保一翁から「共有金取締」になるよう依頼されたことでした。「共有金」の使途先の一つが養育院でした。そのため、養育院の運営にもかかわることとなりました。
このことを依頼した大久保一翁は、幕府時代には外国奉行、大目付、側御用取次などを歴任しました。旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦で敗北したのち、会計総裁、若年寄となり、江戸城開城に尽力し、その後、静岡に移住し、静岡藩の中老となりました。「青天を衝け」でも、栄一の静岡時代に大久保一翁にいろいろお世話になる場面がしばしばありました。
その大久保一翁が明治5年5月に東京府知事となりました。そして、明治7年11月に、栄一は、「共有金取締」になるように依頼されたわけです。
「共有金」とは、江戸時代に松平定信が始めた「七分積金(しちぶつみきん)」を、明治維新後、東京府が引き継いだものです。
江戸の三大改革に数えられる「寛政の改革」を実施したことで有名な松平定信が、寛政の改革の一環として、町入用(町の経費)の節約を命じ、その節約分の2分(20%)を町人に戻し、1分(10%)を各町で積み立て、残りの7分(70%)を毎年江戸町会所に積み立てさせ、幕府も2万両を補助して、窮民救済・不時の災害にあてさせました。これが「七分積金」と呼ばれました。
この七分積金が東京府に引き継がれ、「共有金」と呼ばれましたが、「共有金」の原資は、もともと町人が負担していたことから、東京府も勝手に使わず、公益のために使用され、養育院の経費も、共有金から支出されました。
栄一は、松平定信との関係についてデジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「東京市養育院月報第126号」で「白河楽翁公の遺徳」で次のように語っています。
「満場の諸君、今日は当養育院に深い縁故のある、白河楽翁公(※松平定信のこと)の祥月命日でござります、養育院におきましては毎年この公の命日には一日打寄って紀念祭を致すを例として居ります、(中略)養育院の元の興(おこ)りというものは何であるかというと、明治5年に上野に窮民を集めて、救助しましたのが抑(そもそも)の起源で、その資金は何に依ったかというと、東京市の共有金というものを是に充(あ)てたのであります、その共有金は何から生じたかと申すと、寛政の頃に楽翁公が天下の政治を執る時に非常に倹約を奨励され、方々の町に皆積立金というものをさせました、その積立金の残りが御維新後になっても東京市の共有金となって居りまして、その共有金が窮民救助に使われました。今日本院が救助しまする資金が敢て(あえて:ここでは全ての意味か?)楽翁公の遺された金ではござりませぬけれども今申すような性質の金から成立ちましたから、今日でも公の遺徳を慕うて、毎年5月13日には必ず紀念祭を開くということになって居るのであります。」
続いて次のように、松平定信の月命日には必ず養育院に通っていたことを語っています。「青天を衝け」で、栄一が千代に「これからは月一回、養育院に来よう」と言っていたのは、これに基づいていると思います。
「また私は院長として始終本院に参りますが、月の十三日には必ず是へ出て、幹事その他の人々と事務上の打合せを為し、窮民なり病人なり棄児(すてご)などを見廻って、その取扱上について協議を致すということを一ツの例と致しまするのも、楽翁公の昔をどうぞ忘れぬように致したいという趣意なのであります。」
栄一は、明治7年(1874)11月に共有金取締を命じられ、明治9年に養育院事務長となり、明治12年(1879)に養育院の院長となり、昭和6年(1931)に亡くなるまで院長を続けました。明治7年から数えれば57年、院長という肩書で数えても52年間、養育院に関わりました。まさに生涯を通じて、社会公益事業に身をささげたといってもよいと思います。
栄一が生涯関わり続けた養育院は、都内各所を移転した後、大正12年以降、板橋を拠点にして運営され、現在は、東京都健康長寿医療センターに発展しています。下写真は、東京都健康長寿医療センター全景です。

センター脇の公園には渋沢栄一の大きな銅像があります。(下写真)

センター内には、「養育院・渋沢記念コーナー」が設置されていて、渋沢栄一と養育院のことがわかるようになっています。なお、現在は、コロナ禍のため一般の人は見学禁止となっています。下の写真は、以前に訪問した際に撮ったものです。

【2021年11月9日追記】
明治の文豪幸田露伴が、渋沢栄一の栄一の伝記「渋沢栄一伝」を書いています。その最後は、栄一の社会公益事業特に養育院に尽力したことを称えて、筆を置いていますので、紹介しておきます。
「栄一の慈善事業に力(つと)めたことははなはだ多岐に渉(わた)っている就中(なかんずく)養育院事業は永い間栄一の力を尽したことであり、幾多変遷の後、安房に分院をさえ設くるまでに至り、やや完備して、高貴の御嘉賞をさえ被(こうむ)るに至った。これ等慈善事業に栄一の熱心であったのは、栄一の人心に本づいたことは勿論であるが、その源泉を尋ぬると、栄一の母の性質の美にして、測隠(そくいん)の情はなはだ深く、困窮病弱等の悲むべき人を憫(あわれ)む余りにその救済慰藉の施為(しい)が厚きに過ぎて、時にその夫の喜ばざるまでに及んだ程だったというのに因(よ)ったのである。母は明治七年に死したが、栄一はその後数十年を慈善事業に尽力して怠らなかったのである。母は栄一によって永く生きたのである。
栄一は昭和六年十一月十一日九十二歳を以て時代の人として意義ある生活を終った。」
★東京都健康長寿医療センターの場所は下記地図をご覧ください。

