栄一、岩崎弥太郎と激論す(「青天を衝け」189)
「青天を衝け」第34回で、栄一は、岩崎弥太郎から招待を受けて出かけたものの、大いに違い、大変な議論になっていまい、故平岡円四郎の妻やすの機転により、その場を逃れるという場面がありました。接待の場にやすがいたというのは創作だと思いますが、岩崎弥太郎から接待を受けて、大議論となったという話は実話です。そこで、今日は、岩崎弥太郎から接待を受けた話について書いていきます。(下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」から転載させていただきました。)
合本主義を唱える渋沢栄一と独占主義を貫く岩崎弥太郎とは、事業に対する基本的な考え方が違っていました。
栄一はデジタル版「実験論語処世談」の「岩崎は専権邁進の人」の中で、次のように語っています。
「三菱の先代岩崎弥太郎は、多人数の共同出資によって事業を経営する事に反対した人である。多人数寄り集って仕事をしては、理屈ばかり多くなって、成績の挙がるものでないというのが弥太郎の意見で、何んでも事業は自分一人でドシドシ経営(やって)てゆくに限るという主義であった。したがって私の主張する合本組織の経営法には極力反対したものだが、それだけ又、人才を部下に網羅する事には劫々(こうこう)骨を折り、学問のある人を多く用いたものである。これが、弥太郎の人才を登庸するに当っての一特徴であったかの如く思われる。
私は、弥太郎の何(な)んでも自分が独りだけでやるという主義に反対であったものだから、自然と万事に意見が合わなかったのであるが、明治6年に私が官途を廃(や)めてから、弥太郎は私とも交際して置きたいとの事で、松浦という人が紹介し、態々(わざわざ)当時私の居住して居った兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事もなかったが、それ以来交際するようになったのだ。しかし、根本において、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があったので、遂にそれが原因になり、明治12.3年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。」
ここで、栄一が述べているように、岩崎弥太郎は、能力の高いもの一人がすべてをコントロールすればよいという考え方でした。そのため、商売では独占主義の考えであり、会社経営では社長独裁主義でした。
明治8年5月1日に制定された「三菱汽船会社規則」の冒頭の「立社体裁」で明確に次のように宣言しています。なお原文はカタカナ交じり文ですが、読みやすいようにヒラガナに変えました。
第一条 当商会は姑(しばら)く会社の名を命し会社の体を成すと雖(いえど)も其実(そのじつ)全(まった)く一家の事業にして 他の資金を募集し結社とする者と大(おおい)に異ナリ 故に会社に関する一切之事及び褒貶(ほうへん:ほめることとけなすこと)黜陟(ちゅっちょく:功の有無により、官位を上げ下げすること)都(すべ)て社長に特裁を抑(あお)ぐべし
第二条 故(ゆえ)に会社の利益は全(まった)く社長の一身に帰し会社之損失亦(また)社長の一身に帰すべし
これは、栄一が唱える合本主義を強く意識しつつ(赤字部分に注目してください)、それに真っ向から対抗する考えで、会社のことはすべて社長(岩崎弥太郎のこと)が決めると定め、会社の利益はすべて社長のものであると定めてします。
このような岩崎弥太郎の考えと栄一が議論をしても相いれないのは当然のことです。そこで、「青天を衝け」で描かれたような激論になったのです。
栄一が岩崎弥太郎の接待を受け、その場で激論となった件ですが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「雨夜譚会談話筆記」に次のように書かれています。
「左様、私が大蔵省をよした○明治六年五月ので銀行○第一国立銀行が早く出来たのも事実であらう。(※下線部分は意味が不明)三井の三野村利左衛門と云う人は此の世の中は新知識が必要であるとして、自分の後任に私をしようとし、三井の紋服を呉れたりしたが、私は三井の相談相手にはなるが、番頭にはならぬ。然し三井のためには尽してやろうと思った。これが私と三井を親しくした原因である。三菱の方は岩崎弥太郎氏が、私の主張する会社組織は駄目だぞといい、自分と二人でやれば、日本の実業の事は何事でもやれると共同を申込んで来た。或る時岩崎氏からお目にかかり度(た)い、舟遊びの用意がしてあるから、といって来た。私は増田屋へ行って居り、早速行かずに居ると度々使を寄すので、岩崎の居る柏屋へ行くと、芸者を十四五人も呼んで居る。二人で舟を出し網打などした処、岩崎氏は「実は少し話し度(た)いことがあるのだが、これからの実業はどうしたらよいだろうか」というので私は「当然合本法でやらねばならぬ、今のようではいけない」といった。それに対し岩崎は「合本法は成立せぬ。も少し専制主義で個人でやる必要がある」と唱へ、大体論として「合本法がよい」「いや合本法は悪い」と論じ合い、はては、結末がつかぬので、私は芸者を伴れて引上げた」
栄一の四男の渋沢秀雄が書いた「父 渋沢栄一」の「独占か共栄か」には次のように書かれています。こちらのほうが読みやすいかもしれませんので、こちらも引用しておきます。
「柏屋に引上げてから、岩崎は栄一に用談を切りだした。栄一の三十九歳に対して六つ年上だった岩崎は、すでに海運業の先駆者として巨富を擁していた。台湾征討や西南戦争が事業に幸(さいわい)したのである。彼はまず栄一にさりげなくたずねた。
「これからの実業はどうして経営してゆくのがよいだろう?」
むろん栄一は持論の「合本法」を持ちだした。事業は国利民福を目標とすべきものだから、大衆の資金を集めてうまく運営し、利益を衆に帰さなければならないという説だ。すると岩崎はこの四角四面な理屈に反対した。合本法などは、いわゆる船頭多くして舟山へ登るの類(たぐい)だ。事業は才腕ある人物が専制的に経営しない限り、うまくゆくものではない、というのである。そこで栄一は、才腕ある人物に経営を委託するのは当然だが、その経営者がいつまでも事業や利益を独占するのは間違っていると反対した。しかし岩崎はそれを理想論に過ぎないと論を主張したあげく、栄一にこう呼びかけてき「キミとボクが堅く手を握り合って仕事をすれば、日本の実業界は二人の思う通りになる。そこを見こんで今日はキミに来てもらったのだ。堅苦しい理屈は抜きにして、これから何事も二人協力してやろうじゃないか」
栄一は岩崎の真意が自分の所信と対蹠的(たいしょてき)なのを知って一層激しく反対した。同時に岩崎も栄一の説をネジ伏せようと力説する。とうとう二人は猛烈な論争を始めたので、一座もシラケわたった。と、栄一は突然席を立って、そこに居合わせた馴染みの芸者に目くばせすると、そのままいっしょに柏屋を出ていってしまった。岩崎が、栄一の失礼な「ドロン」に腹を立てたことは言うまでもない。
これがもとで岩崎と栄一の間には長い反目がつづいた。ただし岩崎のほうが立腹の度は強かった。なぜなら彼は意中の栄一を口説いて、ものの見事にヒジテツを食ったからである。」
栄一の雨夜譚筆記の最後の部分に「明治12.3年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。」と書いてあり、渋沢秀雄の文章の最後の部分にも「岩崎と栄一との間には長い反目がつづいた」と書いてある通り、これ以降、栄一たちのグループと岩崎弥太郎の三菱とは、主に海運事業を巡って激烈な競争が展開されます。「青天を衝け」でも描かれると思いますので、海運競争については、その際に書こうと思います。

