五代友厚、大阪商法会議所を設立する。(「青天を衝け」190)
「青天を衝け」第34回は、本編では取り上げられていませんでしたが、紀行で、五代友厚が大阪商法会議所を設立したことも紹介されていました。
そこで、今日は、大阪商法会議所を設立した五代友厚について書いてみます。
五代友厚は、大阪の発展に尽くし「東の渋沢、西の五代」と渋沢栄一と並び称されています。そこで、渋沢栄一がどう五代友厚をどう評価しているか見てみたいと思います。栄一は、デジタル版「実験論語処世談」に収録されている「五代友厚は仁か佞(ねい)か」で次のように語っています。
「この五代友厚氏は、却々(なかなか)長上(目上の意味)に取り入ることの巧みな人で、大久保公なぞへは能く取り入って居ったものである。碁の相手もすれば煎茶なぞもして、人ザワリの実に巧(うま)いものであった。それだからとて全くの幇間(たいこ)に流れて、徒(いたずら)に長上の意見に附和雷同するんでもない。そこの呼吸が実に妙を得て居ったもので、同じ幇間でも船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく一物を胸に蔵した佞(ねい)らしき処のあった幇間である。あるいは実際において、五代氏は佞(ねい)の人であったかも知れぬ。」※佞(ねい)=こびへつらう。
栄一の目には、五代友厚は、目上の人に取り入るのがうまい人物だと写ったようですね。
この五代友厚の人物評が書いてある前に、五代友厚の略歴が次のように書かれています。
「五代氏は素(も)と鹿児島の旧藩士で、かの文久二年の生麦事件から惹(ひ)いて翌3年英仏の軍艦がその罪を問わんとして薩摩に迫ったる際、英国軍艦を進撃して捕えられ、維新になってからは外国官の判事なぞを勤め、その頃は大隈、伊藤、井上なぞの諸公と肩を並べた人で、これ等の諸公と略々(ほぼ)その出身の同じだったものである。五代氏も私が官界を退いて身を実業界に投ずる頃に、やはり、官途に志を絶って実業に従事するようになったが、主として大阪に居を構え、働いたものである。五代氏が官界を去ったのは自ら期する所があったためか、また官界に居られぬやうな事情になったためか、その辺の所まで、私においても詳(よ)く存ぜぬが、私が官界を退いて実業界に力を尽すことになるや、私に対ひ「渋沢は東京でしっかり活動(やっ)てくれ、五代は大阪の方で活動するから……」なぞと申されたものである。別に私は五代氏と約束して東西相呼応し実業界で活動(はたら)く事になったというのでも何んでも無いが、とにかく、私も五代氏も殆ど同じ頃に官途に志を絶ち、実業界に身を投ずることになったもので、五代氏は鉱山とか製藍事業とかいふものに関係し、大阪商法会議所などを起して、これが議長になったりしたのである。」
ここに書いてある通り、五代友厚は、薩摩藩出身です。そして、薩英戦争の際にイギリスの捕虜となったことは、以前、このブログでも書きました。
明治元年2月外国事務局判事となり、大阪在勤を命じられました。ここで、堺事件の解決などに尽力しました。5月には、大阪府権判事となりました。この時期には、香港から造幣機械の輸入に尽力し、大阪造幣局の設置にも奔走しました。明治2 年2月には大阪府判事となり、大阪の治政に勤めていましたが、5月に会計官権判事を命じられ、横浜での勤務を命じられました。この時、大阪の人たちは、五代友厚の大阪への残留を強く希望したといいます。
五代友厚は、一旦、横浜に転勤したものの、明治2年7月4日に退官をしました。そして、住まいを大阪に移し、大阪の発展につくしました。
栄一が大蔵省に出仕したのが、明治2年11月7ですので、官界で一緒に仕事をしたということはありませんでした。
五代友厚が退官した理由について、栄一は「よくは知らない」と言っていますが、「五代友厚伝」で宮本又郎大阪大学名誉教授は、五代友厚が明治政府で重く用いられることに対して、薩摩藩内の武勲派から批判が起こり、政府を圧迫したことから、五代友厚は「官途にあることの難きをしったのだろう」としています。五代友厚は前述のように薩英戦争の際に捕虜となりました。このことについても薩摩藩内の武勲派は良い感情を持っていなかったようです。
さらに、「下野(げや)の理由は、何よりも五代が、自主的に下野して実業に身を投じたいとの主体的な意思にあったと考えたい」と書いています。
つまり、栄一が退官したことと同じ理由で、五代友厚も退官したと思われます。
栄一が退官したのは明治6年のことでしたので、五代友厚の退官は、それより4年前ということになります。
退官した後の五代友厚は、鉱山開発に興味を持ち、天和銅山(奈良県)、蓬谷鉛山(滋賀県)、半田銀山(福島県)、鹿籠金山(鹿児島県)などの鉱山を開発しました。明治6年(1873)には鉱山経営の統括機関である弘成館を創設しました。このように多くの鉱山の経営に関与した五代友厚は「鉱山王」と呼ばれるようになりました。
「青天を衝け」でも岩崎弥太郎が五代友厚を指して「鉱山王」と呼ぶ場面がありました。
また、明治9年には、朝陽館を設立し、製藍業に進出しました。当時、インド産の藍の輸入が増加したため、国産品が圧迫されていました。そこで国産の藍製造を守るとともに将来は輸出することも目指して近代的な製藍所として朝陽館を設立しました。
そして、明治11年(1878)7月で、五代友厚は、大阪の商人有志たちとともに大阪府に大阪商業会議所の設立願書を提出しています。五代友厚を筆頭に、藤田伝三郎(藤田財閥創業者)、広瀬宰平(住友家総理人)などが名を連ねていました。
既に、東京では、明治10年12月設立願書が提出され、翌11年3月12日設立認可を受けていました。
その前例にならって、大阪でも設立願書が出さされ、明治11年8月2日に許可され、同年9月には第1回総会が西本願寺津村別院で開催され、五代友厚は初代会頭に選出されました。それ以降、五代友厚は明治18年に亡くなるまで会頭を務めています。大阪商法会議所は明治24年1月に大阪商業会議所と名称変更し、さらに昭和21年9月に大阪商工会議所となり、現在に至っています。
五代友厚は、大阪商業会議所の設立のほか、大阪株式取引所設立や大阪商業講習所(現在の大阪市立大学) 設立なども行っていて、明治維新によって衰退した大阪経済を復活させ、「大阪の恩人」と言われています。
この一方で、明治14年には「開拓使官有物払下げ事件」の当事者とされ世論の批判を浴びています。「開拓使官有物払下げ事件」は、「青天を衝け」でも取り上げられるかもしれませんので、その時には、改めて五代友厚について触れたいと思います。

