五代友厚、大隈重信に忠告する。(「青天を衝け」191)
大久保利通が暗殺された後、政府の中心となったのは、伊藤博文と大隈重信とでした。
最大の実力者大久保利通がなくなった後の薩摩藩出身者の中で、多少の力を持っていたのは黒田清隆・西郷従道でした。一方、長州藩出身者では、伊藤博文は、大久保利通存命の頃から工部卿となっており、大久保利通と親密さを増していたため、長州出身者の中で第一人者は伊藤博文でした。そして、大久保利通が任じられていた内務卿となったのも伊藤博文でした。
この伊藤博文に対抗できたのは、政府内で唯一大隈重信でしたが、大隈重信のほうが伊藤博文より年齢が上であり、既に明治3年に参議となっており、井上馨と渋沢栄一が退官した後は、大蔵卿として、国家の財政のかじ取りをしている実績がありました。
そのため、大久保利通が亡くなった後、大隈重信が参議筆頭と目され、政府の最大実力者とみられたのが大隈重信でした。
そのため、「青天を衝け」第34回でも、栄一の諫言にも耳を貸さない横暴な人物と描かれていたのでしょう。

一月前のことになりますが、10月17日に放送された「青天を衝け」第31回「栄一、最後の変身」の中で、大隈邸で、大隈重信の妻綾子が、五代友厚から大隈重信に五ヶ条の忠告状が届いたことを栄一と伊藤博文に披露するシーンがありました。
五代友厚が大隈重信に五ヶ条の忠告状を送ったのは事実です。ただ、手紙が届いた時期は、後述するように様々な説があるようです。
その忠告状の草稿が、大阪商工会議所に残されているそうです。そして、「五代友厚伝」(宮本又郎著)によれば、その内容は次のような内容だそうです。( )内は補足説明部分
「第一条 愚説愚論を聞くことを能(よ)く可堪(堪えるべし)。一を聞(い)て十を知る閣下賢明に過(ぐ)るの欠(点)あり。
第二条 己(おのれ)と地位を同せざる者は、閣下の見と人の論説する所、五十歩百歩なる時は必ず人の論を賞して是を採用せらるべし。人の論を賞して、人の説を採らざる時は、今閣下の徳を弘(む)る不能(あたわず)、則賢明に過(ぐ)ると謂(いわ)ざるを不得(えず)。
第三条 怒気怒声を発するは其徳行を失するの原由(原因)なり。怒気怒声を発して益すること無し。奏任(官)は奏任(官)至当の脳より保ち不得(えず)、等外(官)は等外(官)至当の才より収る不能(あたわず)、今閣下の雋明(しゅんめい)之を見る時は、其意に不的は云を不待(※意味不明)、其才能智恵の不至(いたらず)を知(っ)て、怒気怒声を発するは閣下高明(すぐれている様)の欠(点)と言はざるを得ず。
第四条 事務を裁断する時は、勢の極に迫るを待(っ)て之を決すべし。
第五条 己(おの)れ其人を忌(い)む時は、其人も亦(また)己(おのれ)を忌む。故に己の不欲(ほっせざる)人に勉(め)て交際を弘(ひろ)められんことを希望す。柳原、河野の如きも、真の厚意を以て是を御すべし。」
五代友厚の忠告を簡潔に書くと次のようになると思います。
⑴人の話をよく聞いてください。
⑵他人の意見が自分の意見とほとんど変わらないときには人の意見をほめて採用してください。
⑶怒気怒声を発していいことはありません。怒らないでください。怒鳴らないでください。
⑷決断するのは、十分煮詰まるのを待ってから行ってください。
⑸嫌いな人でも交際してください。
結構、厳しいことを言っているように思います。
五代友厚は、築地の大隈重信邸(いわゆる築地梁山泊)にしばしば出入りしていました。上京した際に泊まったこともあるそうです。こうしたことから、大隈重信とは気心が知れていたのではないでしょうか。
ところで、この忠告状がいつ出されたのかですが、「大隈重信(上)」(伊藤之雄著)では、明治12年1月10日に書かれたとされています。
つまり、大久保利通が暗殺され大隈重信が政府の実力者となった時期に出されたということです。私は、当初、こちらだと思っていました。
ところが、「五代友厚伝」(宮本又郎著)では、諸方面から批判の強い大隈重信の欠点を改めてもらうと考えていた大久保利通の意向を考慮して五代友厚が明治7年6月に送ったものだとしています。
さらに、「青天を衝け」の第31回では国立銀行条例が主な話題でしたので、明治5年頃の話としていると思います。
このように五代友厚がいつ忠告状を出したのかについては諸説がありますが、忠告状を出したことは史実のようです。

