栄一、グラント将軍を自邸でもてなす。(「青天を衝け」193)
「青天を衝け」第35回は、最後に三菱とそれ以外の人々との海運競争や開拓使払い下げ事件の始りを予告させるような内容、さらにはコレラの蔓延の記事等、いろいろな事柄が詰まっていましたが、グラント将軍の歓迎の話が中心でした。そこで、今日は、グランド将軍の歓迎特に飛鳥山の別邸での接待の様子を中心に書いていきます。
グラント将軍の歓迎については、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「青淵先生六十年史」(竜門社編)の中で「先生(栄一のこと)、福地源一郎等有志ノ士ト相計リ、グランド将軍ニ対シ東京府民歓迎ノ意ヲ表スルコトヲ計画シ、一日将軍ヲ新富座ニ招待シ、一夕虎門内工部大学校ノ講義室ヲ借リ盛大ノ夜会ヲ催シ、又、天皇陛下ノ御臨幸ヲ上野公園ニ仰キ大ニ饗宴ヲ張リ、グランド将軍ヲ共ニ招待セリ」と書いてあります。
グラント将軍は、アメリカの軍艦リツチモンド号に乗船し明治12年7月3日に横浜に到着しました。デジタル版『渋沢栄一伝記資料』には、それ以後の栄一が関係した接待行事が網羅されています。
それによれば、明治12年7月3日に横浜に到着したグランド将軍は岩倉具視や伊藤博文の出迎えを受け、汽車に乗り東京にやってきました。栄一たちはグラント将軍を新橋駅に迎えています。ここで、栄一は府民を代表して歓迎の辞を述べています。
その翌日の7月4日に東京在留のアメリカ人による独立第百三回記念夜会が上野精養軒で開かれ、グラント将軍夫妻が招待され、栄一も招待されて出席しています。
7月8日には、グラント将軍歓迎夜会が虎ノ門工部大学校で開かれています。
「青天を衝け」では、千代たちも出席した歓迎会がどこで開かれたかはっきり表現されていませんでしたが、おそらく、この工部大学校での夜会がモデルではないかと思います。
7月16日には、東京府民主催グラント将軍歓迎観劇会が新富座で開催されています。ここでは、福地源一郎が書いたグラント将軍を主人公とした芝居が上演されています。
8月1日、横浜居留外国人主催グラント将軍招待夜会が横浜山手公園で開かれ、栄一が出席しています。
8月5日、栄一がグラント将軍を飛鳥山の邸宅に招待して午餐会を開催しています。これが「青天を衝け」で描かれていた栄一の自邸での歓迎会です。
8月25日、東京府民によるグラント将軍の歓迎会が上野公園で開催され、この式典には明治天皇が行幸しています。栄一は御臨幸委員長として準備しています。
「青天を衝け」では、栄一の飛鳥山邸へのグラント将軍の招待が主に描かれていましたが、飛鳥山の別荘へのグラント将軍の招待について、栄一の長女穂積歌子が「竜門雑誌 第509号」「グラント将軍歓迎の思ひ出」と題して次のように語っています。長文ですので、途中、省略しつつ紹介します。
「(上略)前年の春の末頃に建設にとりかかった王子飛鳥山隣地の別荘が、この7月中旬ほぼ落成したので、渋沢一家は20日過から同別荘に移って居たのでした。8月5日将軍御来臨の日の前々日であったと思います、夕刻に父上は例より早く御帰宅になりまして、母上始め一同が玄関へ御迎いに出ますと、父上は幌馬車から御降りになるや否や常になく急いだ御様子で、『サアサア大変忙しいことが出来たよ、明後5日にグラント将軍一行を此家へ御請待することになった』とおっしやり、母上始めがオヤオヤという中に居間においでになっても洋服を召しかえる間もなく母上に、「(栄一邸に招待する事情説明があったが略す)」と申されますと、母上は日頃は何事も念入りになさる代り一寸始めを憶劫(おっくう)になさる御性質にも似ず、『それはそれは将軍程な偉大な御人物を御家へ御迎え申すことが出来るとは、何という光栄でありましょうどうなりともして精々よく準備をととのえて御来臨を仰ぎたいものです』と申されたので父上も御喜びになりました。」
この最後の部分が「青天を衝け」での千代のセリフとなっていると思います。
歌子の思い出話は、次のように続きます。
「グラント将軍一行は渋沢委員長及数名の御案内で王子製紙会社工場を参観せられて後、此所に来臨せられたは2時頃ででもありましたろう。それと前後して、御請待(しょうたい)申した米国公使および朝野の名士たちが御揃いになりました。グラント将軍の夫人は御旅館の延遼館でおみ足を蚊にさされたが、そのあとが腫れて一両日靴をはくことが出来ぬ為とて、前から御断りで今日不参でありましたのは誠に遺憾なことであります。それで御招伴の夫人の御客とてもないこと故母上も最初から御客席へは出ずに居られました。やがて父上からよびによこされましたので、母上は私・琴子・篤二の三人を連れて客室へ参りました。(中略)」
「青天を衝け」では、グラント将軍夫人が一緒に渋沢邸を訪問していますが、史実では、夫人は、宿舎の延遼館で蚊にさされて足が腫れて訪問できなかったようです。でもドラマとしては「青天を衝け」の展開が良かったと思います。なお、夜会の席で、グラント将軍夫人の足が腫れたのを千代が気づいて世話をするシーンがありましたね。実に細かい演出だと感心して見ていました。
客室で栄一の家族がグラント将軍に紹介され、しばらく談笑した後、余興が始まりました。余興は、撃剣(剣術のこと)、柔術、女流武芸者の長刀の型、木太刀と長刀の仕合などがありました。
「青天を衝け」では、相撲を取っていますが、穂積歌子の思い出話では、相撲ではなくて、余興の後に力持ちと柔術家の試合があったようです。
きっかけは、グラント将軍が「柔術は力と技術といづれを重しとするものであるか」と疑問に思い尋ねたことでした。それでは、実験してみようということで、大柄で力持ちの栄一邸出入りの植木職人が選ばれて柔術家と試合をしました。最初の試合では植木職人が柔術家をねじ伏せてしまいましたが、二番目の柔術家を相手にした時には、植木職人が負けてしまいました。結局一対一という結果でした。
そして、「将軍の御質問には解決が付かぬことになったのでしたが、この余興は大層御気に叶い興に入られたそうであります。」と書いてあります。
「前号に記せし如く、グラント君ハ一昨五日に其令息・書記官ヨング氏並に接伴掛伊達宗城・蜂須賀茂韶・建野宮内権大書記官と共に王子の抄紙部・製紙会社を一覧せられ午前11時に渋沢栄一君の別荘に参られ、福地源一郎・渋沢喜作・益田孝・小室信夫・伊集院兼常の諸君も来会ありて、渋沢君より西洋料理の午餐を饗応せらる、夫より柔術に名高き磯又右衛門氏が其門弟を連れ来り、始めに柔術の模範《かた》を取り次に乱取(らんどり)を為す、畢(すべ)て榊原健吉氏の門弟数人鎖鎌・長刀・太刀の仕合等数番を一覧に入れしに、グラント君も其技の精妙なるを感賞せられ深く渋沢君の款接(かんせつ:歓待すること)の懇到(こんとう:懇切)なるを謝せられ、午後2時すぎに帰館せられしと聞けり。」
「青天を衝け」では、相撲を取っていますが、穂積歌子の思い出と東京日日新聞の記事を読むと、相撲は行われた様子はなくて、力持ちと柔術家の試合があったようです。
余興も終わり、一同、グラント将軍をお見送りした後、次のようにお礼を言われたことが思い出話に書かれています。
「(グラント将軍を見送った)あとに残った接待委員の方々が、『奥さん今日は大した御尽力で委員一同が深く感謝致します。この請待(しょうたい)会は予期以上の成功で将軍を始め一行の人々が、今日はどくつろいで機嫌よく談笑せられたことは時々御同席した私共でも始めて見る位でした。この御請待(しょうたい)は日米の和親上に多大な好影響であります』と、丁寧に御礼を云われたのでした。」
この飛鳥山の渋沢家別邸へのグラント将軍の招待ののちに上野公園では明治天皇の御臨行を仰いで、歓迎式典が行われました。この式典でも栄一は福地源一郎とともに委員長として尽力しました。
この時の記念に、グラント将軍はロ-ソン・ヒノキ、夫人はタイザンボクを植樹しました。上野公園に、それを記録した「グラント将軍植樹碑」が昭和4年8月建てられました。(下写真)


