大隈綾子、大隈重信を支える(「青天を衝け」196)
「青天を衝け」第35回では、グラント将軍の歓迎のため、栄一の妻千代、喜作の妻よしが大隈重信の妻綾子、井上馨の妻武子、大倉喜八郎の妻徳子、益田孝の妻栄子とともに、西洋風の挨拶や身だしなみの準備に勤しむ場面がありました。
血洗島の百姓の出身の千代やよしが武家の出身の政府高官の夫人たちを仲良くできるか心配しながら見ていましたが、和気あいあいと楽しく西洋風の礼儀作法の練習をしたり談笑していてほほえましいシーンになっていました。
その中で、お互いの身の上話が話題となり、大隈綾子が「小栗の兄さんもあんなことになって…」とつぶやき、益田栄子が「亡くなった小栗様は綾子さんの従兄弟だったのよ」と話をしていました。そこで、今日は、大隈綾子と小栗上野介との関係など大隈綾子について書いていきます。
大隈綾子は、旗本三枝七四郎の次女として江戸に生まれました。綾子は、幼いころ、父が亡くなったため、小栗家で育てられ、小栗上野介とは兄弟のように育ったと言われています。そうした関係から、大隈綾子が小栗上野介の遺児国子を引き取ったとされています。これについて、「小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣」(村上泰賢著)には次のように書かれています。
「大隈重信の夫人綾子は、旗本三枝家の生まれ小栗忠高の姪にあたります。早くに両親を失い、兄の守富とともに小栗家で育てられた恩があって、小栗家の遺族をよく保護しました。遺児国子の婿を世話し、病弱のため国子夫婦が国府津に移り住むと、綾子は何度となく励ましの手紙や品を送っています。」
小栗上野介の遺族のことは、下記ブログで触れ、三野村利左衛門が亡くなった後は、大隈重信が引き取って育てたと書いておきました。よろしかったらお読みください。
大隈重信は、明治2年に綾子と結婚しました。大隈重信は佐賀にいる頃に結婚していましたが、その妻美登を離縁して綾子を妻としました。大隈綾子も、重信と結婚する前に、大工棟梁の養子柏木貨一郎と結婚していましたが、義母が気難しい人であったため、実家に戻ったと彫刻家高村光雲の「幕末維新回顧談」の「大隈綾子刀自の思い出」に書いてあります。二人とも再婚だったことになります。
大隈重信は、出身地佐賀ではあまり人気がなく、最も人気があるのが江藤新平だそうです。江藤新平は言うまでもなく、征韓論で敗れ下野し、佐賀の乱を起こした人物です。高知で逮捕された後、佐賀で死罪になりました。その新平の次男新作を大隈重信と綾子が引き取って育てました。
このことについて、「知られざる大隈重信」の中で著者木村時夫氏の思い出が語られていますので、少し長くなりますが、引用させていただきます。
「それにつけても今は亡き江藤作平君(平成7年没)を思い出す。今から五十年前、私は早稲田高等学院の教師として新入生を迎えた。まだ生徒の名前も覚えていない頃であったが、何の話のついでにか、「江藤は新律綱領の中で、謀反人は死刑に処す、と自分で規定したが、最初にそれが適用されたのは、他ならぬ江藤自身であった」と話した。生徒一同は苦笑したが、前列に腰かけている一人の生徒は、特に声高に愉快そうに笑った。机の名札を見ると江藤作平とある。ふと思うことがあって、「江藤君は新平と何か関係がありますか ?」と質(たず)ねた。 江藤君は笑いながら「ひこ孫です」 という。私は驚き、そして自分のしゃべり方の失礼を詫び、放課後教員室で会うことにした。その時、私は質(たず)ねた。
「君の家族は大隈さんを怨んでいたでしようね」
「曾祖母(新平未亡人)は私の小さい頃から、いつも大隈さんはひどい人だった、と言い続けていました」
「それなのに君はどうして早稲田へ?」
「私はその後、祖父の新作(新平の次男)が大隈邸に引きとられ、東京専門学校(早稲田大学の前身)まで出してもらったことを知りました。父の夏雄(元衆議院議員)も早稲田を出ました。 私も早くから将来は早稲田へと志していました。大隈さんの優しさと偉さを私は知っているつもりです」
こんな会話が交され、以後私は作平君と親しくなった。あまり知られていない事実であるが、政治的路線は異にしても、大隈は後々までも、江藤に対する友情を忘れることはなかった。」
江藤新平の曽孫が語っているので、江藤新平の子供が大隈家で育てられたことは間違いはないでしょう。
また、大隈重信は、明治21年から外務大臣として不平等条約の改正に取り組んでいました。しかし、大隈重信の進め方に反対する玄洋社社員の来島恒喜(くるしまつねき)により、明治22年10月18日、爆弾を投げつけられました。これにより、大隈重信は右足を切断するほどの重傷を負いました。
そして、犯人の来島恒喜は、その場で短刀でのどをついて自決しました。
その後、大隈重信は無事回復します。下写真は有名な早稲田大学構内に立つ大隈重信の立像です。この像では大隈重信は両足でしっかり立っていますが、右足は義足でした。

大隈重信の暗殺を謀った来島恒喜の法要には、毎年、大隈重信が代理の参拝者を送ったことが「大隈重信」(伊藤之雄著)に書かれていますので、こちらも引用させていただきます。
「興味深いことに、来島の年忌(ねんき)を毎年行っていた小久保喜七(星亨配下の壮士、のち政友会より総選挙に当選六回、貴族院議員に勅選される)によると、大隈は法要にかならす代理の参拝者を派遣したという。大隈が1922年に死去した後も、大隈の遺志として嗣子の信常が代参を派遣した(「小久保喜七氏談話速記」)」
これらの大隈重信の行為とされていることついて、「生誕150年記念 図録大隈重信」には、「この夫人は、そのなよやかさにも似ず度量の大きい人であった。 佐賀の乱で刑死した江藤新平の息子新作を邸内に置いて親身に世話し、世に出したことはよく知られている。また大隈外務大臣にたいする爆弾事件で自殺した来島恒喜の霊をとむらい、老侯(大隈重信のこと)とともに毎年その墓前に香華をささげることを忘れなかったといわれる」と書かれています。前述の大隈重信の美談の裏には必ず綾子の存在があったようです。
大隈重信は、生涯、綾子に頭が上がらなかったと言われていますが、それほど大隈重信の自慢の夫人でもあったようです。
そういえば、「青天を衝け」でも、大隈重信が「やっぱり綾子が一番だ」とつぶやく場面がありましたね。
早稲田大学大隈庭園には、大隈綾子の銅像があります。大隈庭園の奥まった築山の中にあるので、銅像に気が付かない人も多いかもしれません。ご興味がありましたら早稲田大学に行った際には訪ねてみてください。ちなみに、大隈庭園は、一般の人も無料で入場できます。


