岩崎弥太郎、北海道へ進出する(「青天を衝け」195)
「青天を衝け」第35回で、岩崎弥太郎が北海道は宝の地だと言っていました。
このセリフの通り、三菱は北海道に積極的に進出しました。この三菱の北海道進出については、「函館市史」に詳しく書かれていますので、「函館市史」を参考に書いていきます。

「国立国会図書館『近代日本人の肖像』より」
明治8年2月22日三菱商会は政府に対し「北海道航運ノ義ニ付伺」を提出し、北海道への航路を開きたいと申請し、ただちに許可され3月13日には第一便が函館に入港しています。
三菱が北海道へ注目するようになったのは台湾出兵の終結によって、船舶が過剰となり国内航路の開拓をめざしたためです。
そして、明治8年5月に函館支社が開設されました。
当時の政府の海運保護策に基づき、政府が三菱を保護した結果、主要汽船の大部分が三菱に集中しました。
「青天を衝け」で、岩崎弥太郎が「うちのほかに船はなかろう」と言っていましたが、史実もその台詞の通りでした。
海運界における三菱の独占的な地位が確立されてゆくなかで、さらに、三菱は、国内沿岸航路の拡充を目指しました。
明治9年4月には、横浜から箱館を経由して日本海側の諸港新潟・伏木・敦賀を月に1度結ぶ北陸航路を新設しました。この北陸航路の開設は北陸・東北の米や北海道の諸産物の輸送を掌握することをめざしたものでした。
さらに、同じ年の明治9年8月には大阪・下関・北陸諸港・函館をつなぐ日本海航路が新しく開設され、岩崎弥太郎の念願であった「日本大廻り」が完成しました。
しかし、西南戦争の開始により、軍需物資や兵員の輸送に、三菱を挙げて取り組んだため、沿岸航路での運航は中断せざるを得なくなりました。
西南戦争終結後は、西南戦争の輸送のために増船した船舶が過剰気味となったこともあり、函館と横浜間の航路の増強を図りました。
さらに、明治11年以降道内の航路に進出し、道内各地の物産を函館に集め、函館で積み替えて本州諸港に出荷するようになりました。
そのうえで、明治12年5月16日、岩崎弥太郎は内務省前島密駅逓局長にあて、青函定期航路開設の伺書を提出しました。
青函航路は明治6年に北海道開拓使が定期便を開いて、後には週に3往復程度の便がありましたが、伺書を出した頃はその運航がかなり不定期化していたと考えられています。
そこで、三菱は、函館・青森両港の往復航路を開き定期航路化を図ろうとしました。三菱は、定期航路を開設することにより北海道を起点とする海運の独占を狙ったものですが、採算があわなくても航路を存続せざるをえなかった北海道開拓使にとっても歓迎すべきことでした。そして、明治12年6月30日に第一便が函館から青森へ向けて出港しました。
三菱は、青函航路を独占し、さらに道内の海運独占を進めたうえで、運賃の値上げをしています。
こうした運賃値上げの動きは、函館関係の航路だけでなく、全国的に展開されていました。「青天を衝け」でも、大倉喜八郎と益田孝が栄一に怒りをぶつける場面がありましたね。
そのため、三菱以外の海運業者や荷主たちから三菱非難の声が高まり、三菱に対抗する海運会社の設立という動きがおきます。
「青天を衝け」で、栄一が「合本による新たな船の会社を作ろう」と言っていましが、栄一もその渦中に巻き込まれることとなります。この共同海運会社に関する展開も次回以降あるものと思います。

