栄一、製紙会社を設立する。(「青天を衝け」196)
「青天を衝け」第35回で、栄一が飛鳥山の屋敷でグラント将軍を接待しましたが、グラント将軍は、渋沢邸に来る前に、王子の「製紙会社」を見学していました。
王子の「製紙会社」は、当初、「抄紙会社」と呼ばれていて、のちの王子製紙(現在の正式な会社名は王子ホールディングス)の前身です。※「抄紙会社」の「抄」とは「すく」と訓読みし「抄紙」は「紙をすく」という意味です。
そこで、今日は、その「製紙会社」について書いてみます。下写真は王寺駅前にある「洋紙発祥の地」の石碑です。

「抄紙会社」が設立されたのは、明治6年です。この設立に栄一は大いに関与していて、前年の5年6月に井上馨などともに、製紙事業を起そうと計画し、三井組、小野組。島田組などの協力をえて、抄紙会社が設立されています。
栄一は、多くの企業の設立に関与していますが、第一国立銀行に次いで、設立に関与したの「抄紙会社」でした。
栄一は、なぜこんなに早い時期に製紙事業に着目したのでしょうか?
それについて、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』に収録されている「青淵先生伝初稿」の「抄紙会社の創立計画」の中に答えが書いてありますので、一部読みやすく現代カナに変更する等して引用させていただきます。
「初め政府が紙幣を発行するや、太政官札・民部省札・大蔵省兌換(だかん)証券・開拓使兌換証券等は皆内地にて製造したるに、紙質粗悪にして贗造(がんぞう:にせもの)しばしばに興(おこ)れり。これをもって新紙幣をば独逸(ドイツ)に注文し、銀行紙幣・金札引換公債証書をば米国に注文せり。このほか郵便切手・蚕種印税紙を初め各種の切手・印紙類の需用もまたすくなからず、しかるにその製紙印刷を一々海外に仰(あお)ぎては、国家の損失莫大(ぼうだい)なるが故に、先生(渋沢栄一のこと)等は政府事業として製紙の業を起し、精巧なる印刷機械を海外より購(まかな)い、漸を以て(ぜんをもって:ゆっくりの意味)製紙印刷の発達を図(はか)れり。すなわちまず製紙より着手せん。」
これによれば、紙幣、切手や印紙などを印刷する際、当時の国内製のものは粗悪で贋物(にせもの)が製造されやすいが、製紙をいちいち海外に依頼しているのでは費用の無駄であり、手間ひまもかかる。そこで、製紙・印刷工場が必要となる。そこで、まず製紙工場の設立から始めようとしたことのようです。
栄一自身は、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「王子製紙株式会社回顧談」の中で次のように語っています。
「西洋各国が万事に大なる発達を遂(と)げて居るのは、要するにこの文運(※学問や芸術などが盛んに行なわれること)の発達に専心意を注ぐからである。而(しか)してその文運の発達に資すべき事柄は種々あるであろうが、まず印刷事業を盛にして書物なり新聞紙なりを便利に多く出すことが必要である。しからば新聞なり書籍なりの原料は何か。紙である。遡って考えれば製紙及び印刷事業は文明の原泉ともいえる。しかし紙も従来ありきたりの日本紙では迚(とて)もいかぬ。書籍でも新聞紙でも印刷が簡易で価が廉(れん:やすいこと)でなければそれ等の要求を満足させられない。それには西洋紙を造り西洋流の印刷方法に拠(よ)るのが一番近道である。これは何より先に西洋紙の製造をやらなければなるまい。当時自分の考は大略以上の如きもので、また左様(さよう)の趣旨を以て紙漉き事業の発企(ほっき:思いたって事を始めること)を勧説したのであった。」
ここでは、国家として必要な紙幣や切手類といっただけでなく、学問や芸術が発展するために有用な書物や新聞が必要であり、書物や新聞を印刷するために必要な紙の製造が重要だと考えて、製紙会社を設立したと栄一は言っています。
こうした考えに基づいて「抄紙会社」が王子に設立されました。抄紙会社が、王子に工場を建設した理由は、千川上水からの分水(王子分水)によって、大量のきれいな水を得られること、さらに石神井川を下れば、隅田川に通じていて、水運の便がよかったことなどがありました。
現在の紙の原材料は木材パルプですが、当時の原材料は、襤褸(ぼろ;ぼろきれのこと)でした。そのため、襤褸が集まりやすい都市近郊であったということも王子が選ばれた理由の一つです。
明治8年12月に工場が竣工し、操業が始まりました。翌明治9年5月に抄紙会社から「製紙会社」と名称を変更しました。さらに「王子製紙」となったのは、明治26年のことですので、栄一がグラント将軍を接待したのは明治12年のことですので、グランド将軍が渋沢邸を訪問した当時は「製紙会社」と呼ばれていました。
「製紙会社」が操業を始めた明治6年に、ちょうど地租改正法が制定されました。地租改正に際して土地の所有者・所在地・地目・面積・地価・地租額などを記載した「地券」が政府から土地の所有者に発行されることになりました。そのため、多くの地券用紙が必要となりました。その用紙の製造のため、明治9年4月に大蔵省紙抄紙局の製造工場が、「製紙会社」の隣に開設されました。しかし、創業したばかりの抄紙局王子工場の製造能力では、すべての需要に応ずることは困難なため、「製紙会社」に地券用紙の製紙を委託することになりました。
そのため、「製紙会社」は、地券用紙という大量の官需によって、創業当初の厳しいスタートを乗り切ることができました。なお、栄一は、明治31年に会長を退くまで、「製紙会社」の経営に関与しました。
「洋紙発祥の地」の石碑は下記地図をご覧ください。

