栄一の妻千代、コレラにて死す。享年42歳(「青天を衝け」197)
「青天を衝け」第36回で描かれた話題は、三菱との競争、北海道開拓使払い下げ事件、明治14年の政変、長女歌子の結婚など盛り沢山でした。その中でも、今回の中心は、栄一の妻千代がコレラで亡くなったことでしょう。
そこで、今回は、千代の死について書いていきます。三菱との競争、開拓使払い下げ事件、明治14年の政変などは、後日改め書いていきます。
栄一の妻千代が亡くなったのは、明治15年7月14日でした。数え年42歳の若さでした。死因は、その頃流行していたコレラでした。前回の「青天を衝け」でも、コレラの蔓延が話題となっていましたが、千代の死の前触れだったわけです。
栄一は、千代の思い出についてほとんど語っていませんので、亡くなった時のことも語っていません。
しかし、長女穂積歌子は、「ははその落葉」の中で、千代が亡くなった経緯や亡くなった後の対応などを詳しく語っています。昭和5年に出版された改訂版は、現在の私たちでも、それほど苦にならずによめると思いますので、長くなりますが、そのまま引用させていただきます。
「明治15年の夏の始、父上(栄一のこと)は銀行の支店視察の為め奥州の盛岡辺まで出張されたが、まだ御旅行中の頃から所々に虎列剌病(コレラ)が流行するというので、(母千代は)非常に心配されて、とりわけ御帰りを待ちかねられ、私夫婦が御傍に居る時は御機嫌がよいが、常は何となく御心細さうに見えると人々がいうたが、後に思えば自然この頃から御体が弱って居られたと見える。
父上が帰られて後、悪疫はいよいよ蔓延するので、西が原の別荘は人里も遠く静かだからとて、7月7日に私夫婦をも誘われてそこに移られた。12日の夜も大層のどかに様々の御話をして夜更けて御前を退いたが、その時まではすこしも常と変ったところも御見えにならなかったのに、翌(あく)る13日暁がた俄(にわか)に御発病なされ、急に御重態になられた故、居あはせた人々は驚き周章(あわて)て、まづそれぞれへ人を走らせどうしたらよかろうと騒ぐうちに、主治医の猿渡常安氏が直ちに馳せつけられ、御傍(おぞば)に附き切りで看護され、続いて池田・樫村・佐藤・ベルツ氏等名医の方々を迎え、力のかぎり治療されたがすこしも効果なく、14日の夕方に42歳を一期として終に御逝去あらせられた。(中略)
父上はじめ誰も誰も、只夢に夢みる心地がして何事も手につかず、ことに私たちは、世もこれで尽きはてた様に思われて歎(なげ)きまどう外は無かった。しかし只泣いてばかりは居られぬ故、泣く泣くかつ大いそぎで仮の御葬儀を取り行ったのである。
言うはつらいが、言わねば胸のふさがりが晴れぬのは、深い悲歎の追懐であるから、今少し話そう。母上の御病気は、流行の悪疫に類似の症であったのである。最初からひどく懼(おそ)れられて、予防におろそかは無かったのに、どうして感染せられたものか。それで早速届け出すと、検疫係りの警官が出張し、みだりに病室に出入することを禁じられ、看護人も始めに定めた人々の外は許るされぬなど、もちろん当然の処置であるけれど、世事に慣れぬ婦人たちには、何やら御病人が罪人視される様に思われて、此上なく情無い気がした。
いよいよ御臨終といふ際にも、常には片時も傍を離されなかった愛児たちにも、取りすがって泣くことすら許されず、間を隔てて伏し拝ませるばかりであった。涙ながら訣別せられた父上が泣入る琴子・篤二の二人を引きつれて、病室を去られた時の有様は、時々目先にちらっいて、私の為には生涯の悲劇である。
その夜すぐに荼毘(だび)所へ御送り申さねばならぬので、御召物を新調する暇は無く、有合(ありあい:ありあわせの意味)の白無垢を召させて、柩(ひつぎ)に納め奉った。白蝋(はくろう)の様な御顔が、最後に御棺を閉ずる時には、安らかに神々しく見上げられたのがせめてもの慰めであった。」
千代が亡くなった死因はコレラでした。発症から亡くなるまでわずか2日余りでした。まさに突然のことでした。
しかも、コレラは江戸時代から猛威をふるった感染症でしたので、役所に届け出ると検疫係の警官が出張してきて、病室にも自由に出入りできないようにし、臨終となっても取りすがって泣く事もできませんでした。
また、亡くなった後は火葬とされました。渋沢家では、これまで土葬でしたので、初めての火葬に戸惑いもあっただろうと思います。また、突然のことですので、死に装束の準備もありませんので、あり合わせの着物を着させて火葬しています。これらのことも、栄一、そして歌子ら子供たちにとってもつらいものだったでしょう。
千代の死は、こうした通常でない亡くなり方でしたので、「青天を衝け」で描かれていたように、残された栄一や子供たちの悲しみは特段に大きかったものと思います。
亡くなった後のことについても穂積歌子が書いていますので、続けましょう。
「あの御徳の高い奥樣がどうしてこの樣な情ない御病氣に罹(かか)られたのてあろう。何事にも念には念を人れることの御好きな奧樣の御取りしまいを、どうしてかように匇卒(そうそつ:いきなり)にせねばならぬようなことになったのてあろうなど、女中たちが泣きかこつのを、叱(しか)り戒しめながらも、私も心中は同感であった。その夜、夜更けに御柩を途り出した。穗積を始め親戚の男子たちは皆野邊送りの御供に立った。悄然(しょうぜん)として先に立たる、父上の御あとから、私は琴さん篤二さんを両手に引いて隨(したが)い行き、門前に立って出て行く御柩(ひつぎ)を見送るり奉(たてま)ったのてある。御見送りの人々の持つ提燈(ちょうちん)の光りで、御柩を覆うた白布がほの白く、いつまても見えて居たが、終(つい)にそれも暗の中に清え失せた時一同噎(むせ)び入ったが、中には思はず地上に伏しまろび声をはなって泣いた女たちもあった。
15日の朝御骨上げして、御遺骨を飛鳥山邸に帰えし入れた。今まで親戚中に火葬せられた方は絶えて無かったので、私共には始めての事であるから、余所(よそ)にばかり聞いて居た無常迅速ということが、ひしひしと身に迫って感じられた。
極暑の時節殊に悪疫流行の折柄故、16日に略式の葬式を営み、御戒名を宝光院貞容妙珠大姉と諡せられ、御自身択んで置かれた谷中の墓地の、杉の木立繁く苔の露深い所に御遺骨を埋葬した。(中略) 10月の22日、百ケ日の御忌日に御本葬が執行せられた。御着なれになった御召物をかたしろとして柩におさめ、深川の家から送り出し、上野の御寺で荘厳な御葬儀の式が行はれたのである。」
真夏でもあり、コレラが流行していることもあって、7月16日に略式の葬式を行い、谷中の墓地に埋葬しました。戒名は「宝光院貞容妙珠大姉」でした。(下写真の右のお墓が、谷中霊園の渋沢家墓地に建つ千代のお墓です。左は渋沢栄一のお墓です)
千代の本葬は、百ケ日の忌日にあたる10月22日に上野寛永寺で執り行われました。この時には、千代が気に入っていた着物を形代(かたしろ)として棺に納め、深川の自宅から送り出しました。
栄一は、千代の死について語っていないと冒頭に書きましたが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』に栄一から尾高惇忠に千代の死を伝える手紙が収録されています。
※「青天を衝け」では、飛鳥山に戻ってきましたが、当時、尾高惇忠は、第一国立銀行の盛岡支店長で、盛岡に赴任していて、史実では戻っていません。
尾高惇忠は、栄一にとって師でもあり従兄弟でありますし、千代の兄でもありますので、もっとも気の許せる間柄でした。その尾高惇忠への手紙には、その時の栄一の隠さざる気持ちが書かれていると思います。なお、原文は候文で読みにくいので、現代語に書き換えてあります。
【栄一から尾高惇忠への手紙】
(冒頭部分は元の手紙が破損しているため不明)13日夜はとりあえず乗り越え、翌14日になって、早朝から外国人医師ベルツ先生に来ていただき、池田先生・佐藤先生もまた往診にやってきてくれましたが、如何(いかん)ともしようがなく、午後4時に亡くなりました。本当に丹精込めた看護の甲斐もなくて、私はもちろん、家族親戚一同、悲しみは際限がありません。ご推察ください。
このような突然のことでしたので、やもえず医者と相談し、死因はコレラと届けたので、葬儀も内々に行い、後日、本葬を行おうと思っています。亡骸はなくなった夜に規則どおり火葬とし、本日午後3時、上野寛永寺の墓地に埋骨いたしました。血洗島や手計の人たちは近くなので埋骨に立ち会うことができましたが、あなたには、後日行う本葬の際に回向していただこうと思っていますので、上京いただかなくてもよいと思っています。すでに電報を差し上げていますが、この点、ご承知いだきますようお願いいたします。
本当に残念ですが、突然のことで、千代とも生前には充分相談することもできず、本当に遺憾なことと思っています。ただ、この春に長女歌子が結婚し夫の穂積陳重も同居してくれているので、看護そのほか非常に行き届いたものでしたから、思い残すことはありません。ただ長女や子供たちの世話には私も困っています。わずか数日間の病気であり、亡くなってあまり日もたっていませんが、妻を失って子供たちへの愛情が一層増してきました。この気持ちですべてをお察しください。とりあえず今日は時間をみつけて悪い知らせの詳細を申し上げなくてはならないと思って筆をとりました。
七月十六日
渋沢栄一
尾高大兄
なお、ご一同へよろしくお伝えください。
今回は、大川の姉(千代の姉で大川平三郎の母)、尾高勝五郎(尾高惇忠の長男)、大川平三郎、その他いずれも実に丁寧に看病してくれました。そして、その後の処置も行き届いていました。いささか千代の日頃からの世話の甲斐があったものと喜んでおり、不幸中の幸いとだと思っています。
二日たちましたが、一同は無事でまず心配はないと思います。そうはいいながら(コレラの)予防措置を十分しておりますので、ご心配無用です。」
栄一が千代を失った悲しみや非常に気落ちしている様子が「私はもちろん、家族親戚一同、悲しみは際限がありません。ご推察ください。」や「ただ長女や子供たちの世話には私も困っています。わずか数日間の病気であり、亡くなってあまり日もたっていませんが、妻を失って子供たちへの愛情が一層増してきました。この気持ちですべてをお察しください。」(前述の手紙の赤字部分)に現れているように思います。「青天を衝け」で栄一が号泣していましたが、あのシーンは栄一の気持ちそのものだったと思います。