栄一、東京養育院を守る(「青天を衝け」198)
「青天を衝け」で描かれていたように、養育院について、栄一も熱心に取り組むとともに千代も熱心に取り組んでいました。そのことを穂積歌子が「ははその落葉」の中で次のように語っています。なお、「青天を衝け紀行」でも、このことは紹介されていましたね。
「母上はすべて表だった事にはなるたけ関係せぬようになされたが、父上が殊に御熱心な養育院の事だけには、常に深く心を用いられ、折々は私たちをもつれて憐(あわれ)な人々の樣子を見に行かれ、法事など営む時は菓子などを施されることもあった。」
ここで、滅多に公式的なものには関係しなかった千代が養育院だけは別だったと書かれていますし、栄一も「殊に御熱心」だったと書かれていますので、夫婦して養育院については熱心だったと思います。
栄一や千代が熱心に取り組んだ養育院の運営ですが、「青天を衝け」で描かれていたように、千代が亡くなる直前の頃から、養育院廃止論が東京府会議員の間に高まってきました。
その時の様子を、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年」の中で、栄一が次のように語っています。
「然るに明治15年頃から東京府会議員の間に養育院無用論が起り、『窮民を府で救助するということは寧ろ惰民(だみん)を造る原因になる、これから先は社会に貧困者が年一年と増して来る。これを一々救助していては終(つい)に東京府の富を以てしてもこれに充つることが出来ぬようになりはしないか、現に英吉利(イギリス)などでも救貧はかえって惰眠(だみん)を養成するものであると学者が論じていると聞く、かかる事を東京府で継続するのは実に愚の至りである、宜(よろ)しく養育院廃止すべし』という声が高くなって来た。」
これに対して、栄一は、良く知っている議員に対して、「もし養育院を廃するようになったらば東京府は必ず他日後悔するようになろう、かかる大都会、しかも一国の首府にしてこれ位な設備を置いて窮民を救助するということは絶対に必要である。現に欧羅巴(ヨーロッパ)でも各国にこの施設がある。蓋(けだ)し窮民を救うに弊害が伴うということは独り英吉利(イギリスの)みではない。(中略)現に路頭に迷う窮民を救助する方法なしとせば彼等は凍餒(とうだい:こごえることと飢えること)のために一命をおとすことは必然である、それゆえ適当の方法を立てこれを救うのはいわゆる人道である、人道を捨てて顧みざるはこれぞ暴戻の政になる」と強く反論しました。
こうした栄一の運動により、明治15年に廃止論は成立しませんでした。しかし、翌明治16年に、明治17年をもって廃止するということが決議されてしまいました。
ただ、栄一の運動もあって、全面的に廃止するのではなく、明治17年以降は、養育院へ新たな入所者を受け入れず、残っている収容者が死亡するか養育院を出るかして、全員がいなくなってから全廃するということになりました。
これは、廃止論を骨抜きにすることです。もし、栄一が頑強に廃止に反対し、府会と緊張関係が続けば、最も困るのは養育院に収容された人々や子供たちですので栄一は、府会議員たちと全面的に喧嘩するのではなく、やんわりと矛先を収めさせたのだと思います。
こうして、明治18年6月末日からは税金で養育院を運営することが廃止され、「養育院及元府立病院蓄積金」の利子だけで経営することが決定されました。
そのため、栄一は、養育院を府立から私設のものに変えて府から独立した事業として継続させようと考えつき、養育院の事業そのものと当時養育院に属していた財産の一部を府より貰い受け、さらに協力者を募って寄付を集め、従前の府立養育院の仕事をすべて引受けて窮民救助の任務に当ることにしようとします。
この栄一の願い出が東京府から許され、明治18年11月に養育委員会が設置され、東京府から経営を委任され、運営されることになりました。
委員は、渋沢栄一・三井三郎助・伊達宗城・松平定教・青地四郎左衛門・橋本綱常・大倉喜八郎・福地源一郎・沼間守一・川村伝衛の10名が委嘱されました。
そして、その中から、互選により、栄一が院長となり、橋本綱常が医長に選ばれました。ちなみに、この人たちは全員、無給でした。
それ以降、明治22年に養育院が東京市営となるまでの間、栄一は、慈善バザーを行ったり、寄付を募ったりして、情熱をもって養育院を守っていきます。
ただ、「青天を衝け」では、まだ明治15年頃の出来事が描かれていますので、これ以上を書くと先走りになるかもしれません。養育院について「青天を衝け」で描かれたら、改めて書いていきます。下写真は、東京養育院から発展した東京都の「健康長寿医療センター」にある渋沢栄一の像です。

東京府から税金の支出をとめられた時期は、養育院にとって最も困難な時期だったと思います。こうした困難にもかからず栄一は熱心に養育院事業に取り組み養育院を守っていきます。この栄一の情熱に大変驚かされますが、この裏には、冒頭書いたように、千代が生前養育院に熱心に通い心を通わせていたことから「千代のためにも」という思いが栄一の頭の中にあったのではないかと私は思います。

